私の千駄木②谷中銀座

 大学時代は外食が多かったんですが、一応は3合炊きの小型炊飯器を持っていましたので、たまには自炊もしていました。
 そんな時の食材の買出しは、千駄木時代はもっぱら歩いて3、4分の谷中銀座商店街を利用してました。
 千駄木を離れてすでに30年近くなるので記憶の薄らいでいる部分も相当あり、少しでも当時のことを思い出す手助けになるかと、この10日間、千駄木近辺に関するインタ−ネットのサイトを覗きまくっていたんですが、「そうそう、そうだった」と記憶のよみがえることもある反面、「ええ?30年前の自分の知っているあそこはそんなじゃなかったと思うんだけど、記憶違いかな?」と逆に混乱してしまうことも多々ありました。
 例えばこの谷中商店街を日暮里駅方向に歩いて突き当たりにそこそこ段数のある階段があります。いくつものネットのサイトで「ゆうやけ段々」という名前で出てきて、そのそばには名前を記した碑もあるという。そんな名前があったことも今回はじめて知りましたし「そんな碑、あの階段の側にあったっけ?」と、いくら思い出そうとしても碑のあった記憶に辿り行かない。結局は「私が千駄木を離れてから碑が立てられたんだろう」という結論に落ち着いて、その日はサイト巡りを終わらせたんですが、翌日やはり谷中銀座近辺の別のサイトを見ていてその理由がわかりました。
 そのサイトによると、階段を「ゆうやけ段々」と命名したのは、どうも地域紙「谷中・根津・千駄木」の編集人の一人森まゆみさんらしい。
 地域紙「谷中・根津・千駄木」(略して「谷根千」)が発刊されたのが20年余り前。商店街の人たちが森さんに「いい名前を付けてくださいよ」と頼んだとすると、それ以前とは考えにくいので、やはり想像通り私の時代には階段は「名前はまだない」状態だったと知れた次第です。
 この谷中銀座商店街、道幅もさして広くなく小ぢんまりとした商店街で、全国に数多くある「銀座」と名のついた商店街の中でも小さい方ではなかろうかと思うのですが、サイトに掲載されている写真を見ると、多くの店が木製の看板を掲げたりして洒落た雰囲気を出そうと頑張っているみたい。私の時代はごく普通の商店街でしたが。(はなしがそれますが当時から「銀座」を名乗っていたかどうかも思い出せずにいます。)
 ひとつにはこの商店街がテレビドラマの舞台に使われて、小さいながらも名が全国に知れ渡ったせいだろうと思います。
 で、日記に「谷中商店街」の事を書く前に調べておこうと思いながら、どうしてもサイトで見つけられなかったのがそのドラマのことです。
 松島菜々子主演のドラマのことはサイトの中にあったのですが、じつは私、そのドラマは見たことがありません。
 それとは別で、いまからたぶん15年ぐらい前に谷中商店街を舞台にしたホ−ムドラマがあったはずなんです。「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」の延長線上のホ−ムドラマだったような記憶があるのだけれど、間違いないかと問われると自信はありません。間違いないのはテレビでそのホ−ムドラマをはじめて見たとき、「あれ、あの谷中商店街が舞台になってる」とじつに懐かしかったことです。
 誰かこのホ−ムドラマのことを覚えている人がいたら教えていただきたし。
 千駄木は文京区なんですが、この谷中商店街はその名のとおり基本的には台東区谷中にあります。ところが台東区とその北隣の荒川区の境界線がこの商店街の東半分で真ん中の道の上を通っており、この商店街のメンバ−の何割かは台東区民ではなく荒川区民なんです。
 行政区分上では別の行政組織に属する人たちが、同じ商業共同体の一員としてやっていくというのは、傍で見ていて、いろいろ厄介なこともあるのじゃないかしらとかってに想像してしまうのですが、逆にそういう違いを乗り越えて結びついている商店街だけにしたたかでしなやかなところがあるのかもしれません。
 

私の千駄木①千代田線

 「古本うさぎ書林」の店主芳賀さんは、前にも書いたんですが、私がオンライン古本屋を開くにあたって、その著作を教科書がわりに使わせてもらった方で、相互リンクもまずこの方にお願いして張っていただきました。
 そんなわけでオンライン古本屋を運営している方のホ-ムペ-ジの中では「古本うさぎ書林」を開くことが最も多く、「お気に入り」に登録して、その日記も1年前からは、かかさず読ませてもらっています。
 その日記の中で最近、芳賀さんが高校時代の3年間、千駄木駅を利用して通学していたことをはじめて知りました。
 そして数日前に芳賀さんのホ−ムペ−ジに、来る4月30日に千駄木周辺で行なわれる「一箱古本市」の案内と、芳賀さん版の谷根千谷中・根津・千駄木)地区名所案内が載りました。
 私は東京で暮らした10年余りのあいだに4度ほど住まいを変えたのですが、その3度目が文京区千駄木3丁目で、時期は1974年春から1977年春までの3年間でした。
 芳賀さんのほうは、かってに略歴から計算させていただくと1980年頃からの3年間のようなので、ダブっていた時期はなかったにせよ、ほぼ同じ時代に千駄木にかかわって生きていたんだなあとその奇遇に驚いています。
 土地鑑のある場所の記述に接すると、どうしても頭の中でその場所を思い出して具体的な光景を想像してしまう。
 芳賀さんが「千駄木駅から団子坂を通って通学…」「男子校だった…」と書いてあると、「ああ、それじゃああの高校だったんだ」なんて推理を働かせてしまうのが私の悪い癖です。
 夏目漱石の「我輩ハ猫デアル」のなかに、隣接した中学校のベ−スボ−ル部員がボールをしょっちゅう苦沙彌宅に打ち込んで苦沙彌先生を怒らせるエピソ-ドがあります。小説では「落雲館」と名づけられていたと思うけど、多分そのモデルになっている学校ではないかしら。


(5月23日追記。当の芳賀さんからいただいたメールによると、上記の私の推理は見事に外れていました。小説の世界では、この地と思しき場所で起こった殺人事件をみごとに解決して、かの名探偵明智小五郎が華々しくデビューを飾っているのですが、私のようなへっぽこ探偵の迷推理ではどうにもならんですな。)


 私が住んでいたのは千駄木3丁目33番地で、東京メトロ(当時は営団地下鉄千駄木駅から徒歩15秒という実に便利な独身者アパ-トでした。
 千駄木駅には南と北の二つの出入り口があって団子坂あるいは三崎坂へは南口から出るんですが、私の下宿へは北口からでした。千駄木駅の北出入り口は不忍通りの西側にあって、当時出入り口の北隣に銭湯がありました。その銭湯のもう一つ北隣に細い路地があってその路地の奥に私の下宿はありました。
 この文を書くにあたって、今でもあの銭湯があるかどうか、文京区公衆浴場組合のホ-ムペ-ジを開いてみたりしたのですが、今ではあの近辺には3軒しか銭湯がなく、そのどれも私の下宿に隣接した銭湯ではないようなので、多分もう廃業したんでしょう。(毎日のように利用していた銭湯なのに、今になるとどうしてもその名が思い出せません。)
 私の下宿の本当の玄関は銭湯横の路地奥にあったのではなくちゃんと反対側についていたのですが、千駄木駅を利用するにはこの裏の出口のほうがずっと便利で下宿の連中はみな裏門のほうを主に使っていたと思う。何しろ、相当の土砂降りでない限り傘なしでもほとんど雨に濡れることなく駅から下宿までたどりつくんですから。
 下宿の本当の玄関の前には須藤公園という小さな公園があったのですが裏門ばかり使っていた私はこの公園に足を踏み入れた記憶がほとんどない。
 そして千駄木駅がある千代田線というのが当時の私には実に便利な路線でした。神田神保町古書店街にも、京橋フィルムセンタ−にも、赤坂にも、六本木にも、青山にも、原宿にも、渋谷にもこの線1本で行けるのだから、こんな便利なことはない。
 千駄木時代の3年間(大学時代です)は実に楽しい時代でした。でも、おそらく私のいた下宿もすでに廃業していそうだし、街の景観も変わっていそうで、私の書いている千駄木はすでに私の記憶の中だけの千駄木かもしれません。
 飛び飛びになるかもしれないけれど、これからすこし私の記憶の中の千駄木のことを書き記しておこうと思います。

桂文枝さん死去のこと

 先回の文の9代目正蔵お披露目パレードの前日、3月12日に大阪では上方落語界の重鎮5代目桂文枝が亡くなっています。肺癌、74歳、ちょっと若すぎますね。
 関東では、テレビでもラジオでもいいのだけれど、上方落語を聞く機会ってあるのだろうか?
 こんなことを書いてる私自身上方落語に詳しいわけじゃないのだけれど、少なくとも関東在住の人たちよりは数多く上方落語に接してると思う。
 とはいうものの実のところ私、東京でも大阪でも落語をライブで鑑賞したことがない。落語に限らず、舞台で演じられる芸は客席で見なけりゃその魅力は半減してしまうことはわかってるんです。スポ−ツ観戦をテレビの中継録画でするようなものですものね。
 東京に暮らしていて寄席に行こうと思えば行く事の出来た20歳台の頃は、落語の話芸にはあまり関心がなく、もっぱら江戸の雰囲気を体感したいというだけのために古典落語の文庫本を読むだけでした。
 落語をライブで見てみたいなと思い始めた頃は、すでに郷里に帰っていてそう簡単には見られない状況で、仕方なくテレビ、ラジオ、カセットで楽しんできた次第です。
 そんな素人ファンなのでたいしたことは言えないのだけれど、東京のほうは話芸を純粋に味わってもらおうと芸人は芸を磨いているようにみうけられます。「粋」を追求するんですね。
 大阪は、大衆の質が東京と違うのか、噺の中にチョコッと舞踊を挟んだり「はめもの」って言うんですが三味線や太鼓の効果音を入れたりして、「通」の人もそうでない人も楽しめるような仕掛けをするんです。口演の際の小道具も、東京では座布団と湯呑と扇子ぐらいだけど、大阪じゃそれに小机、拍子木、ついたてなんかも使います。
 食べ物に例えると「蕎麦に、ツユをどっぷりつけたりしちゃいけないよ。蕎麦の風味が味わえねえ。こうやってチョコッとツユをつけてツツッとたぐるのさ」というのが東京で、「中に天かすやらワカメやら卵やら具がようけ入っとったら、一杯のうどんで何ぼもの味が味わえて得した気分になるやろ」というのが大阪です。
 5代目文枝という人はそういった舞踏や小道具の効果を取り入れた落語を得意とした人でした。記者会見で弟子の桂三枝は5代目文枝の芸を「色気のある芸」といっていました。また私の読んだ新聞には「はんなり」という言葉が使われていました。(「はんなり」は「上品ではなやかな感じがするさま」と辞書にあります。)どちらも5代目文枝をうまく言いあらわした言葉だと思う。
 もともと落語の発祥は関西だといいます。パイオニアといわれる大坂(大阪)の米澤彦八が西暦1700年前後の人なので江戸時代中期の起こりなのですが、この頃はまだ辻咄、つまり祭りの時などに野外で噺を聞かせる大道芸だったらしい。やはり大坂の岡本万作が江戸へ下って小屋で木戸銭を取って噺をするようにしたのがその100年後ということだから、江戸落語といっても今の寄席のかたちでの始まりは江戸も後期になってからです。
 江戸で演じる題目も、ずいぶんの数、上方から「輸入」して改造したものだったようです。(例えば大坂の「時うどん」が「時そば」になったように)
 それが明治・大正・昭和初期の間に、東京では落語が庶民の代表的な娯楽の地位を得ていったのに対し、御本家大坂では漫才のようなもっと泥臭い笑いに人気を取られて落語はどんどん衰退していった。
 戦争が終わった頃は、上方落語は風前の灯状態だったんです。 
 その「死に体」の上方落語界を必死に立て直したのが、5代目桂文枝であり3代目桂米朝であり6代目笑福亭松鶴であり2代目桂春團治だったわけです。
 完全に立ち直っているかというと、そうでもない。例えば東京にはいつも落語をやっている「定席」が複数あるのに、大阪にはいまだに「定席」がひとつもないんです。これがないと落語ファンが育ちにくい。(いま上方落語協会会長の桂三枝さんらが必死になって「定席」作りを進めています。)
 また落語家の数も大阪は東京の半分以下だろうと思います。東京は落語協会落語芸術協会圓楽一門会・談志流合わせると400人は軽く超えてると思う。大阪は上記4人のそれぞれの一門とあと林家染丸・染五楼の一門がメインで上方落語協会というのがあるんですが、会員は200人もいないんじゃないでしょうか。
 人を笑わせたいと思っている人の多くは修行の時間が短くても名の売れる可能性の高い漫才のほうへいってしまう。
 従事する人数が少ないとやはり落語の巧い落語家がうまれにくい。
 古典落語というのはシンクロナイズド・スイミングのテクニカル・ル−ティ−ンみたいなものだと思うのですが、いま私が「この人は古典咄が巧いなあ」と思える噺家の多くは東京の人です。上方では笑福亭仁鶴さんぐらいしか思い浮かばない。(米朝さん世代の落語家は除いてです。ひょっとすると私の知らないところで巧い人がいっぱいいるかも分からない。そのときはごめんなさい。)
 そういう心もとないところのある上方落語界なだけに、文枝さんにはもうちょっとこの世で踏ん張ってもらって若手に助言し続けてもらいたかった。
 先回はめでたい話の内容だったので、桂文枝さん死去のことはわざと触れずに今回に持ってきました。
 

9代目林家正蔵

 きのう3月13日、林家こぶ平改め9代目林家正蔵(正式には3月21日の口演からだそうですが)のお披露目パレ-ドが東京の上野・浅草で行なわれたとか。
 沿道には14万5千人が集まったとかで、テレビで見ているとたしかに大盛況のパレ-ドだったみたいです。この光景を見ていると「ああ、なんのかんの言っても東京下町にはまだまだ江戸情緒の名残りがあるんだなあ」と思います。
 先代の8代目正蔵(9代目のお父さんの林家三平さんがなくなった翌年に「もともと海老名家から借りてた名前だから」と「正蔵」の名跡を海老名家に返して「彦六」で生涯を終えた人ですが)は、江戸古典落語の正道をいった人で、仲が悪かったと聞いている6代目三遊亭圓生とならんで端正な江戸落語を聞かせてくれた人でした。
 しかしその先代の7代目正蔵林家三平のお父さん、つまり9代目正蔵のお祖父さん)は、噺に漫談的要素も取り入れて、息子三平の先駆をなすような人だったらしい。(林家三平はリアルタイムでテレビでよく見ていたけれど、残念ながらそのお父さんの7代目正蔵は一度も噺を聞いたことも見たこともありません。)こんどの9代目は話に聞く7代目正蔵の芸風を受け継ぐ形になると思います。
 また9代目はお父さんの血を引いた謙虚で明るい性格だし、故・古今亭志ん朝に師事したことで古典落語も熱心に勉強しているようなので、近い将来東京の落語界のトップに登りつめる人だろうと私は思っています。
 誰の言葉だったかは忘れました。明治時代に日本の初代総理大臣に伊藤博文(これも他の総理だったかわかりません)が選ばれた時、だれかが「どうみても伊藤は総理の貫禄がない。あんな人物で大丈夫か。」というと、だれだったかが「貫禄はその地位についたら自然に備わってくるものだよ。」といったといいます。
 9代目正蔵も2年前から襲名が決まっていました。この2年で「正蔵」の大名跡を継ぐ自覚を培って欲しいとの配慮だったとのことですが、たまにテレビで噺を見ると、この2年でこぶ平は間違いなく大きく進歩しています。
 9代目林家正蔵のこれからの活躍を期待する次第です。
 

「金ちゃんヌ−ドル」

 つれづれなるままにインタ-ネットを眺めていたら、テレビのバラエティ番組「トリビアの泉」のファン・サイトで興味を引く記事に出くわしました。
 このサイト(「トリビアの泉で沐浴」http://www.oride.net/trivia/index.htm)では番組に登場した過去のトリビアの一覧を掲載しているのですが、その中の「トリビアの種」の一つに「中国の宮廷料理人が一番美味しいと思うカップラ−メンは『日清カップヌ−ドルシ−フ−ド』」というのがありました。昨年の後半に放送されたもののようですが、私はテレビでは見ていませんでした。
 昨年上半期の売れ筋カップ麺20種類を中国の超一級料理人3人に試食してもらい、美味しいと思うもの5種類を選び出す。その5種類でもう一度決選投票をおこなって第1位を決める。そうやって中国の超一級料理人に「最も美味しい」と折り紙を付けられたカップ麺が『日清カップヌ−ドルシ−フ−ド』だったというものです。
 で、この紹介記事には、最初に選ばれた20種類のカップ麺と、そのうち上位5種類に選ばれたカップ麺の名前が列記されているのですが、な、な、なんと、その中に徳島製粉の「金ちゃんヌ−ドル」の名前が入っているじゃ、あ−りませんか。しかも上位5銘柄まで勝ち進んでいる。
 私はこれまでに「金ちゃんヌ−ドル」を食べたことがあったかな?それともなかったかな?食べていたにしても記憶にないくらい回数は少ないはずで、そんなだから当然味などわからない。
 「金ちゃんヌ−ドル」って、そんなに美味かったのか。それよりもだいたい、私は徳島製粉の即席めん関係の商品はどれも広くても四国地区ぐらいでしか販売されていない地域限定商品と思い込んでいました。
 手元にある日本経済新聞社発行の「市場占有率2005年版」を見ると、即席めんの全国販売額シェアは、トップが日清食品の41.0%、あと東洋水産(マルちゃん)17.7%、サンヨ−食品(サッポロ一番)14.0%、明星食品9.8%、エ−スコック6.1%と続き、この上位5社で9割を占めています。残りの即席めん製造メ−カ−全てあわせて1割のシェアで、つまりはこの業界は上位5社が9割のシェアを占める寡占業界なのです。
 パイオニア日清食品がトップを走り、残りの大手4社が必死に後を追う。ここ30年この構図に変化はありません。
 サイトに書かれていた文によると、最初の20品目は世に流通しているおよそ620種類のカップ麺から選ばれたそうですが(袋麺は除外してカップ麺だけでそんなにあるのか!)、20品目のうち上位5社の商品が19品目を占めています。唯一、徳島製粉の「金ちゃんヌ−ドル」だけがその中に食い込んでいるのです。
 日清食品が最初の即席めん「チキンラ−メン」を出したのが昭和33年(1958年)でしたか、考えてみると徳島製粉はその数年後には袋入り即席めんを早くも発売していました。名前は「ナミキンツルラ−メン」。
 当時小学校低学年だった私は、「チキンラ−メン」もよく食べましたが「ナミキンツルラ−メン」もよく食べていたものです。思い出すなあ、冬、練炭火鉢になべをかけてラ−メンを作っていたこと…。
 徳島製粉の会社は私の通っていた高校のすぐ近所にあって、その敷地内に創業者の大きな銅像が建っていました。創業者がまだ生きているうちから大きな銅像を立てるというのが、なんとも田舎っぽくて趣味が悪くっていい感じではなかった。
 そんなこともあってか徳島製粉のラ−メンというと、どうしても田舎の二流メ−カ−のラ−メンという印象があって、大人になってからは地元徳島に住んでいてもあまり食べなくなっていたのですが、今回この記事を読んで「金ちゃんヌ−ドル」を食べてみたくなりました。
 それよりも、いったい「金ちゃんヌ−ドル」は日本のどの辺まで販売されているか知りたいので、徳島から隔たった地域の方で「うちのほうでも『金ちゃんヌ−ドル』は売られてるよ」という情報があればぜひ教えてください。
 ちなみにサイトに記されていた上位5品目は、日清カップヌ−ドル、金ちゃんヌ−ドル、マルちゃん麺づくり合わせみそ、日清ラ王しょうゆ、日清カップヌ−ドルシ−フ−ドでした。
 早速ラ−メン買ってこようかな。

店の看板の描きなおし

 数日前に思い立って、「古本屋グラッパ」のホ-ムペ-ジの表紙を大幅にリニュ−アルしました。
 それまでの表紙は昨年9月に作ったもので、作った私自身、いろいろ不満のあるものだったのですが、とりあえず見てくれた人が「ああ、古本屋だな」とは分かってくれそうな出来ではあったので、そのまま半年やってきました。
 前のは自己採点で、100点満点の40点ぐらいだったかな。
 ホ−ムペ−ジ作成ソフトの「ホ−ムペ−ジ・ビルダ−8」をインスト-ルして、説明書もソフトに付いてるやつだけじゃ心もとないので2冊ほどわかりやすそうな本を買い込み、昨年5月ぐらいからホ−ムペ−ジづくりに励んではいたんです。だけど、なかなか当初の計画どおりに前進しなかった。
 だいたい、買った参考書はシロウト向けのはずなのに、シロウトにはチンプンカンプンの横文字が山のように出てくる。サッパリわからなくってパソコン用語の辞典を買ってくると、今度はその辞典に載っている説明文に別の意味不明の横文字が登場してくる。
 はじめのうち質問に答えてくれていた息子ふたりも、度重なるオヤジの質問攻めに、次第に「付き合ってらんねえよ」という態度をあらわにしてくるし、嫁に聞くと「これはこうするのよ」と間違った知識を教えてくれるし、そんなだから一歩の前進に相当時間がかかっています。 
 前の表紙を作成した時は、画面左上の文を右下に移すだけで2,3日かかるというような状態でした。
 文をクリックしてマスで囲んで、思っている位置にマウスでひっぱて来ようと思ってもマスが思うように動いてくれない。それじゃあと文をコピーして思っている位置に貼り付けようとしたら、「貼り付け」のクリックをした途端に画面が瞬いたようになって、それまでに作ってきたペ-ジが一瞬にして空白になってしまう。そんなことの繰り返しでした。(私はいまだになぜそうなるのかわからずにやっている状態です。)
 これを読んだホ−ムペ−ジ作成に熟達した人は「初歩的な操作ミスじゃん」と思われるかもしれません。
 でもきっと、ホ−ムペ−ジを作る際私と同じような歯がゆい思いをした人がいるはずです。そんな経験をして私の苛立ちに共感してくれる人、ぜひコメントを寄せて私を慰めてください。
 で、七転八倒の生みの苦しみの末作り上げた前のホ−ムペ−ジの表紙だったのですが、作った当初から不満いっぱいのものでした。
 一番大きな不満は「キ−プ・レフト」のペ−ジになっていたことです。
 9月の作成時には「ホ−ムペ−ジ・ビルダ−」でいう「どこでも配置モ−ド」で作ったために、ウィンドウの幅に合わせてレイアウトが自動的に調整されるということがなく、ウィンドウの幅が狭くなると右側の画面がどんどん削られていくんです。それが恐くて全体を左側へぎりぎりまで寄せてあったため、逆に画面をめいっぱい広げた状態で見ると、ずいぶんと左よりの構成になっていました。我ながらかなりブサイクだなとは思っていたのですが、どうやればいったん作り上げたペ−ジを中央揃えに直せるのかわからず、そのままでやってきました。
 また、これは11月ごろオンライン古本屋をやっている同業の方から指摘されてはじめて気が付いたのですが、前の表紙では文字のサイズを大きくすると表とその下の文字列が被って、大変見づらい画面になっていたのです。こちらは文字のサイズを「中」に設定して、それでおかしくないようなペ−ジを作っていたのですが、考えてみると、見る側はどんな文字サイズで見ているかわからない。これなど、全く思い至らなかったことです。
 それやこれやで、世は年度替りの時期でもあるし、前のトップペ−ジ作成からちょうど半年経っているしということで、うまくいくかどうか恐くもあったのですが、トップペ−ジのリニュ−アルとあいなったしだいです。
 作り変えにあたっては、「よりシンプルに」を心がけたつもりなんだけれど、うまくいったといえるかどうか、前のトップペ−ジを知っている方の感想を待つしだいです。
 

今年のアカデミ−賞最終結果

 結局、今年のアカデミ−賞は、クリント・イ−ストウッド監督の「ミリオンダラ−・ベイビ−」が作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞と、主要な4つの部門でオスカーを獲得しました。オスカ−の数の上では「アビエイタ−」が5つで多いけれど、主要部門は助演女優賞だけなので、どうしても「ミリオンダラ−・ベイビ−」が勝ったという印象は否めない。
 調べてみると、クリント・イ−ストウッドもすでに監督作品が20作を超えています。
 彼は俳優としてセルジオ・レオ−ネ監督のマカロニウエスタン3作で名をあげてハリウッドに凱旋したものの、はじめ1年ほどはさしたる役もつかずにいました。
 そんな彼を登用してスタ-に育てたのがドン・シーゲル監督です。ドン・シ−ゲル監督とクリント・イ−ストウッドは5本の映画でコンビを組みましたが、なかでも「ダ−ティハリ−」はクリント・イ−ストウッドの代表作の一本となりました。クリント・イ−ストウッドの監督業の手ほどきもドン・シーゲル監督から受けたといえます。師匠がしっかりしているからか、クリント・イ−ストウッド監督作はどれもがっちり仕上がっていて安っぽい演出は見られません。きっと「ミリオンダラ−・ベイビ−」も秀作なのだろうと思います。
 しかし、です。クリント・イ−ストウッドは1992年に「許されざる者」ですでに一度監督賞を取っています。「許されざる者」は監督賞だけではなく作品賞にも輝いています。(ただし、これまでのアカデミ-賞において、ほぼ8割方は、作品賞に輝いた映画の監督が監督賞も手にしているので、両賞同時に取ることはめずらしいことではありませんが。)今回は監督賞をアカデミ-賞に縁遠いマ−ティン・スコセッシに取らせたかったです。
 クリント・イ−ストウッドは、どうせ取るなら主演男優賞を取ってもらいたかった。彼のアメリカ映画界への貢献は計り知れないものがあるのに、アクション・スタ−のイメ-ジのせいかこれまでアカデミ-主演男優賞にノミネ-トされたのは「許されざる者」と今回の「ミリオンダラ−・ベイビ−」だけという寂しさで、それも74歳という歳を考えると、これから先主演男優賞を取る機会があるかどうか。
 クリント・イ−ストウッドと同じように、スタ−としてアメリカ映画界に多大の貢献をしながら、演技のほうでオスカ−をもらえず、しかしながら演出家としてオスカ−を手にしている人物にロバ−ト・レッドフォ−ドがいます。
 彼も1980年に「普通の人々」で作品賞と監督賞を取っていますが、演技の賞は取っていません。
 ただし、彼の場合は「アカデミ−賞何するものぞ」的雰囲気があって、ふだん「牧場経営と若手映画人育成が主な仕事で、映画出演はアルバイトです」と言ってそうな感じで、「彼にオスカ−あげなきゃかわいそう」という気持ちが湧いてこないのが幸いです。


 今回、功労賞がシドニ−・ルメット監督に贈られたのですが、この監督がまだ80歳だと聞いて少し驚いてしまいました。
 「すると『十二人の怒れる男』(1957年)を演出した時は30歳そこそこだったのか!」という驚きです。
 30歳そこそこの人間にこれだけの問題作とこれだけの役者の演出を任せきるアメリカという国のシステムと、シドニ−・ルメットという監督の才能とに感嘆してしまいました。


 シドニ−・ルメットにしてもマ−ティン・スコセッシにしてもニュ−ヨ−クを中心に活動する「ニュ−ヨ−ク派」なのでアカデミ−賞がとりにくいのだという人がいます。たしかにそういうことはあるのかもしれない。ア−サー・ペン監督もそういえばアカデミー賞は取っていません。
 とはいってもそのハンディは少しのもので、これまで外国籍の監督やポルノ出身の監督でも監督賞を受賞してきているのだから、もっと大きな要因は運・不運ですよね。
 その運・不運で俳優や監督のこれからの出演料や演出料が大きく左右されるのだから、アカデミ−賞というのもアメリカン・ドリ−ムの一面をもつ反面、やっかいなしろものではありますな。