私の千駄木①千代田線

 「古本うさぎ書林」の店主芳賀さんは、前にも書いたんですが、私がオンライン古本屋を開くにあたって、その著作を教科書がわりに使わせてもらった方で、相互リンクもまずこの方にお願いして張っていただきました。
 そんなわけでオンライン古本屋を運営している方のホ-ムペ-ジの中では「古本うさぎ書林」を開くことが最も多く、「お気に入り」に登録して、その日記も1年前からは、かかさず読ませてもらっています。
 その日記の中で最近、芳賀さんが高校時代の3年間、千駄木駅を利用して通学していたことをはじめて知りました。
 そして数日前に芳賀さんのホ−ムペ−ジに、来る4月30日に千駄木周辺で行なわれる「一箱古本市」の案内と、芳賀さん版の谷根千谷中・根津・千駄木)地区名所案内が載りました。
 私は東京で暮らした10年余りのあいだに4度ほど住まいを変えたのですが、その3度目が文京区千駄木3丁目で、時期は1974年春から1977年春までの3年間でした。
 芳賀さんのほうは、かってに略歴から計算させていただくと1980年頃からの3年間のようなので、ダブっていた時期はなかったにせよ、ほぼ同じ時代に千駄木にかかわって生きていたんだなあとその奇遇に驚いています。
 土地鑑のある場所の記述に接すると、どうしても頭の中でその場所を思い出して具体的な光景を想像してしまう。
 芳賀さんが「千駄木駅から団子坂を通って通学…」「男子校だった…」と書いてあると、「ああ、それじゃああの高校だったんだ」なんて推理を働かせてしまうのが私の悪い癖です。
 夏目漱石の「我輩ハ猫デアル」のなかに、隣接した中学校のベ−スボ−ル部員がボールをしょっちゅう苦沙彌宅に打ち込んで苦沙彌先生を怒らせるエピソ-ドがあります。小説では「落雲館」と名づけられていたと思うけど、多分そのモデルになっている学校ではないかしら。


(5月23日追記。当の芳賀さんからいただいたメールによると、上記の私の推理は見事に外れていました。小説の世界では、この地と思しき場所で起こった殺人事件をみごとに解決して、かの名探偵明智小五郎が華々しくデビューを飾っているのですが、私のようなへっぽこ探偵の迷推理ではどうにもならんですな。)


 私が住んでいたのは千駄木3丁目33番地で、東京メトロ(当時は営団地下鉄千駄木駅から徒歩15秒という実に便利な独身者アパ-トでした。
 千駄木駅には南と北の二つの出入り口があって団子坂あるいは三崎坂へは南口から出るんですが、私の下宿へは北口からでした。千駄木駅の北出入り口は不忍通りの西側にあって、当時出入り口の北隣に銭湯がありました。その銭湯のもう一つ北隣に細い路地があってその路地の奥に私の下宿はありました。
 この文を書くにあたって、今でもあの銭湯があるかどうか、文京区公衆浴場組合のホ-ムペ-ジを開いてみたりしたのですが、今ではあの近辺には3軒しか銭湯がなく、そのどれも私の下宿に隣接した銭湯ではないようなので、多分もう廃業したんでしょう。(毎日のように利用していた銭湯なのに、今になるとどうしてもその名が思い出せません。)
 私の下宿の本当の玄関は銭湯横の路地奥にあったのではなくちゃんと反対側についていたのですが、千駄木駅を利用するにはこの裏の出口のほうがずっと便利で下宿の連中はみな裏門のほうを主に使っていたと思う。何しろ、相当の土砂降りでない限り傘なしでもほとんど雨に濡れることなく駅から下宿までたどりつくんですから。
 下宿の本当の玄関の前には須藤公園という小さな公園があったのですが裏門ばかり使っていた私はこの公園に足を踏み入れた記憶がほとんどない。
 そして千駄木駅がある千代田線というのが当時の私には実に便利な路線でした。神田神保町古書店街にも、京橋フィルムセンタ−にも、赤坂にも、六本木にも、青山にも、原宿にも、渋谷にもこの線1本で行けるのだから、こんな便利なことはない。
 千駄木時代の3年間(大学時代です)は実に楽しい時代でした。でも、おそらく私のいた下宿もすでに廃業していそうだし、街の景観も変わっていそうで、私の書いている千駄木はすでに私の記憶の中だけの千駄木かもしれません。
 飛び飛びになるかもしれないけれど、これからすこし私の記憶の中の千駄木のことを書き記しておこうと思います。