桂文枝さん死去のこと

 先回の文の9代目正蔵お披露目パレードの前日、3月12日に大阪では上方落語界の重鎮5代目桂文枝が亡くなっています。肺癌、74歳、ちょっと若すぎますね。
 関東では、テレビでもラジオでもいいのだけれど、上方落語を聞く機会ってあるのだろうか?
 こんなことを書いてる私自身上方落語に詳しいわけじゃないのだけれど、少なくとも関東在住の人たちよりは数多く上方落語に接してると思う。
 とはいうものの実のところ私、東京でも大阪でも落語をライブで鑑賞したことがない。落語に限らず、舞台で演じられる芸は客席で見なけりゃその魅力は半減してしまうことはわかってるんです。スポ−ツ観戦をテレビの中継録画でするようなものですものね。
 東京に暮らしていて寄席に行こうと思えば行く事の出来た20歳台の頃は、落語の話芸にはあまり関心がなく、もっぱら江戸の雰囲気を体感したいというだけのために古典落語の文庫本を読むだけでした。
 落語をライブで見てみたいなと思い始めた頃は、すでに郷里に帰っていてそう簡単には見られない状況で、仕方なくテレビ、ラジオ、カセットで楽しんできた次第です。
 そんな素人ファンなのでたいしたことは言えないのだけれど、東京のほうは話芸を純粋に味わってもらおうと芸人は芸を磨いているようにみうけられます。「粋」を追求するんですね。
 大阪は、大衆の質が東京と違うのか、噺の中にチョコッと舞踊を挟んだり「はめもの」って言うんですが三味線や太鼓の効果音を入れたりして、「通」の人もそうでない人も楽しめるような仕掛けをするんです。口演の際の小道具も、東京では座布団と湯呑と扇子ぐらいだけど、大阪じゃそれに小机、拍子木、ついたてなんかも使います。
 食べ物に例えると「蕎麦に、ツユをどっぷりつけたりしちゃいけないよ。蕎麦の風味が味わえねえ。こうやってチョコッとツユをつけてツツッとたぐるのさ」というのが東京で、「中に天かすやらワカメやら卵やら具がようけ入っとったら、一杯のうどんで何ぼもの味が味わえて得した気分になるやろ」というのが大阪です。
 5代目文枝という人はそういった舞踏や小道具の効果を取り入れた落語を得意とした人でした。記者会見で弟子の桂三枝は5代目文枝の芸を「色気のある芸」といっていました。また私の読んだ新聞には「はんなり」という言葉が使われていました。(「はんなり」は「上品ではなやかな感じがするさま」と辞書にあります。)どちらも5代目文枝をうまく言いあらわした言葉だと思う。
 もともと落語の発祥は関西だといいます。パイオニアといわれる大坂(大阪)の米澤彦八が西暦1700年前後の人なので江戸時代中期の起こりなのですが、この頃はまだ辻咄、つまり祭りの時などに野外で噺を聞かせる大道芸だったらしい。やはり大坂の岡本万作が江戸へ下って小屋で木戸銭を取って噺をするようにしたのがその100年後ということだから、江戸落語といっても今の寄席のかたちでの始まりは江戸も後期になってからです。
 江戸で演じる題目も、ずいぶんの数、上方から「輸入」して改造したものだったようです。(例えば大坂の「時うどん」が「時そば」になったように)
 それが明治・大正・昭和初期の間に、東京では落語が庶民の代表的な娯楽の地位を得ていったのに対し、御本家大坂では漫才のようなもっと泥臭い笑いに人気を取られて落語はどんどん衰退していった。
 戦争が終わった頃は、上方落語は風前の灯状態だったんです。 
 その「死に体」の上方落語界を必死に立て直したのが、5代目桂文枝であり3代目桂米朝であり6代目笑福亭松鶴であり2代目桂春團治だったわけです。
 完全に立ち直っているかというと、そうでもない。例えば東京にはいつも落語をやっている「定席」が複数あるのに、大阪にはいまだに「定席」がひとつもないんです。これがないと落語ファンが育ちにくい。(いま上方落語協会会長の桂三枝さんらが必死になって「定席」作りを進めています。)
 また落語家の数も大阪は東京の半分以下だろうと思います。東京は落語協会落語芸術協会圓楽一門会・談志流合わせると400人は軽く超えてると思う。大阪は上記4人のそれぞれの一門とあと林家染丸・染五楼の一門がメインで上方落語協会というのがあるんですが、会員は200人もいないんじゃないでしょうか。
 人を笑わせたいと思っている人の多くは修行の時間が短くても名の売れる可能性の高い漫才のほうへいってしまう。
 従事する人数が少ないとやはり落語の巧い落語家がうまれにくい。
 古典落語というのはシンクロナイズド・スイミングのテクニカル・ル−ティ−ンみたいなものだと思うのですが、いま私が「この人は古典咄が巧いなあ」と思える噺家の多くは東京の人です。上方では笑福亭仁鶴さんぐらいしか思い浮かばない。(米朝さん世代の落語家は除いてです。ひょっとすると私の知らないところで巧い人がいっぱいいるかも分からない。そのときはごめんなさい。)
 そういう心もとないところのある上方落語界なだけに、文枝さんにはもうちょっとこの世で踏ん張ってもらって若手に助言し続けてもらいたかった。
 先回はめでたい話の内容だったので、桂文枝さん死去のことはわざと触れずに今回に持ってきました。