アカデミ−賞の発表

 2週間ほどブログを書くのをお休みしてしまいました。
 家族が寝静まってから、ゴキブリのごとく布団から抜け出してパソコンに向かう身としては、2月の夜の冷え込みは相当きびしいものがあり(私一人のために部屋を暖めるのも気が引けて暖房はつけず)、「風邪を引いてなんぼのものでなし、ちょっと冬眠」と相成った次第。
 お客さまからの注文の確認と発送、および新しい商品のサイトへのアップはちゃんとしていましたけど。
 明日からは3月だし、またブログを書き始めました。ただし今日は昼間の仕事が休みなので、日中にキ−ボ−ドに向かっています。
 最近、私の書くブログの文章が、歴史上の出来事に言及したりして思っている以上に長くなる傾向があり、オンライン古本屋としての仕事を済ませてブログを書こうとすると、「また徹夜して寝不足になるかも」という気持ちが先にたって気が萎えてしまい、書くのをやめちゃうことがある。そんなこともあるので、これからはほんのちょっぴり文章を短めに抑えようと思っています。


 今、正午なんですが、今日は(アメリカでは27日夜)アメリカのアカデミ−賞の発表がある。というか、ただ今、授賞式の真っ最中です。我が家はWOWOWとは契約していないので授賞式の生放送は見られませんが、昼のニュ-スで「アビエイタ−」が候補11部門のうちすでに4部門を受賞したことを伝えています。モ−ガン・フリ−マンがやっと助演男優としてオスカーを手にしたとも言っている。
 実のところ、今年の作品賞候補に上がっている作品はまだ一本も見ていないのですが、感じだけで言うと、今年の作品賞候補作は粒がそろっているように見受けられます。どの作品が受賞しても不思議ではなさそうで、夜のニュ-スが楽しみです。


 アカデミ−賞はこれまで、超大作が作品賞も含めて大量の賞を獲得する時もあれば、あまり制作費も掛からなかっただろうと思われる小品が作品賞をとるときもあり、予測は難しい。時計の振り子のように右へ振れたり左へ振れたりしているのですが、間違いなく、世界中でおこなわれている映画賞の中の最大のものなので映画好きとしては興味津々です。
 この内容をブログに登録して2時間後には全ての賞が決まっているでしょうが、今年は大作に軍配が上がっているか、それとも小品に軍配が上がっているか。
 発表の前に筆を置きます。
 

「板東俘虜収容所」のこと

 徳島の鳴門市大麻町に「ドイツ館」という建物があります。
 「ドイツ」の名前は今からおよそ90年前にこの地にあったドイツ人捕虜の収容所に由来しています。
 その収容所の正式の名前は「板東俘虜収容所」といいます。
 「俘虜」は「捕虜」と同じ意味です。1945年(昭和20年)までは「俘虜」(ふりょ)という言葉は普通に使われていました。(「俘虜」という言葉から大岡昇平さんの「俘虜記」という小説を思い浮かべる人も多いと思います。)が、1946年(昭和21年)に定められた「当用漢字」から「俘」という漢字がはじき出されたため、以後、新聞等のメディアが同義語の「捕虜」を使用するようになり、こんにち「俘虜」という言葉は死語となってしまいました。この文章に限ってはこの先「俘虜」で統一して書かせてもらいます。
 1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて戦われた第1次世界大戦は、主戦場はヨ−ロッパ大陸でしたが、戦火はアフリカ大陸・アジア大陸にも飛び火し、日本も当時イギリスと日英同盟を結んでいたことからこの戦争に参戦、中国大陸の青島(チンタオ)でドイツ軍と戦いました。
 その際のドイツ兵俘虜4600名余りが戦争終結まで日本国内の俘虜収容所で暮らすこととなったのです。


 はじめ彼らは日本の東京以西の12箇所の収容所に収容されました。
 四国には松山、丸亀、徳島(徳島の最初の収容所は現・徳島市万代町にありました)の3個所に収容所があったのですが、急ごしらえで建物が窮屈だったり、統合することで俘虜管理を合理化することなどを理由に、現・鳴門市大麻町板東の地に敷地面積12000坪の俘虜収容所が造営されました。
 板東は徳島市内から吉野川を越えて北へ10数キロ。阿讃山地の東端ちかくの山ふもとにある農村地帯です。
 1917年(大正6年)4月、「徳島」の206名、「松山」の414名、「丸亀」の333名が、この新しい収容所に収容されることになりました。約1000名のドイツ兵俘虜を収容した「板東俘虜収容所」の誕生です。
 この「板東俘虜収容所」は、1917年(大正6年)4月にスタ−トしてから、翌1918年(大正7年)11月の大戦終結、翌々1919年(大正8年)6月のベルサイユ講和条約を経て1920年(大正9年)1月、最後まで残っていた俘虜92名を収容所から送り出して、1ヶ月後の2月8日その使命を果たし終えるまで、2年10ヶ月の間だけ歴史の中に存在しました。


 わずか2年10ヶ月しか存在しなかった「板東俘虜収容所」がこんにちも語り継がれる理由は、ひとえにこの収容所の俘虜の扱いにあります。日本国内の他の収容所では俘虜を精神的肉体的に痛めつけるところが多くみられたのに対し、この収容所では俘虜の人権を最大限に尊重して出来うる限りの自由を俘虜に与えていました。


 「板東俘虜収容所」の研究をする人たちに一つの定説があります。「板東俘虜収容所」が他の収容所と比べて俘虜たちにとって暮らしやすかったのは所長の陸軍歩兵大佐松江豊寿(まつえ・とよひさ・現福島県会津若松市生まれ・板東俘虜収容所開設当時満43歳)の人間性によるものだということです。
 彼を主人公に「二つの山河」という作品を書き直木賞を受賞した中村彰彦さんは、戊辰戦争で徹底的に痛めつけられ明治に入ってからも長いあいだ「賊軍」という白い目でみられ続けた会津人に生まれ育ったことが同じような立場のドイツ人俘虜に対する「やさしさ」になったのではないかと解釈しています。
 そのおかげで収容所内の中庭には俘虜自身の運営する家具屋、仕立て屋、鍛冶屋、靴屋、楽器修理屋、写真屋、ケ−キ屋、製本屋、音楽塾、理容店、等々の各種店舗小屋が並び、俘虜たちの居住する各棟にも煙草・ビ−ルの販売所、食堂、浴場、ビリヤ−ド台、製パン所、蔵書6000冊の図書館から収容所内の新聞を発行する印刷所まであったそうで、そこでは新聞だけでなく、俘虜の書いた原稿を本にして出版したり、収容所内で通用する紙幣や切手も発行していたらしい。まるで鉄条網で囲まれた内側にドイツ人1000人の町が出来たようなものだったようです。
 収容所のある板東村の村民たちがそれまで青い目の外国人をほとんど目にしたことがなかったことが、ちょうどそれまで人間を見たことのない動物が恐怖心を抱くことなく人間に近づいてくるのと同じように、ドイツ人俘虜に気安く近づく結果を生み、これもいい方向に働いたのではないでしょうか。(中途半端に外国人と接してなまじその違いをわかってくると「外国人はなにを考えているかわからない恐ろしいもの」という観念が先に立って、悪い結果を生みやすい。ほとんど同時期の1923年(大正12年)に起こった関東大震災の時の都会での朝鮮人虐殺などはその例だと思います。)
 俘虜たちは収容所内だけでなく、例えば夏の暑い日には収容所から10キロも離れている瀬戸内の海岸まで遠足を兼ねた海水浴に出かけていたそうで、そんなおり山道で彼らのことを知っている村民と出くわすと、村民は覚えたてのドイツ語で「グ−テンタ−ク」と挨拶し、俘虜のほうは「こんにちは」と日本語で挨拶を返すようなことがよくあったらしい。
 それだけではなく専門知識を持った俘虜には講師になってもらい、ドイツの文明文化を直に教えてもらう講演会をよく開いているし、音楽はオ−ケストラと合唱団を複数組造るし、「スポ−ツ委員会」は、ホッケ−、テニス、フットボ−ル、ハンドボ−ル、、レスリング、クリケット、ボクシング、水泳などのグル−プを造ってゲ−ムをたのしんでいたようです。
 ドイツ兵俘虜が何か変わったことをはじめるたびに好奇心から首を突っ込んでそれを見ている地元の村民やその他の県民の姿が目に浮かびます。
 収容所開設からほぼ1年後の1918年(大正7年)3月には収容所近くにある霊山寺(四国八十八カ所の一番札所です)と板野郡公会堂を会場にして2週間にわたり「俘虜作品展示会」を開催、入場者数は延50000人を超えています。徳島県知事、軍徳島管区司令官、学校からの集団児童らとともに東久邇宮も来られ、さながら小ぢんまりとしたドイツ博覧会といった風だったようです。
 こういった俘虜の活動に松江所長は寛大というより積極的だったぐらいです。
 べ−トーベンの交響曲第九番歓喜」の演奏も、この俘虜たちで結成した徳島オ−ケストラが1918年(大正7年)6月1日におこなったものが本邦初演といわれています。
英米文学者で評論家であった中野好夫さんは、お父さんが国鉄職員だった関係で若者時代各地を転々と移り住んだ人ですが、旧制中学のころ徳島でも暮らしています。そのときこの俘虜たちのおかげでオーケストラの演奏というものを初めて聴いたと、その自伝の中で書いています。)
 他にケチャップ、ベ−コン、ハム、ソ−セ−ジ、ブランデ−といった加工食品の造り方、西洋野菜の栽培法、豚の去勢法、植物標本の作り方、動物標本の作り方、石鹸製造法、皮革加工法、石橋の作り方等々、短い期間に驚くべき種類の知識を徳島の地に置いて帰りました。
 1000人の俘虜のうちの多くが、いわゆる職業軍人ではなく、何らかの専門知識か専門技術を持ってはるばる中国まで働きにきていた人々で組織された義勇軍だったことが文化交流にさいわいしたようです。
 それに答えるかのように松江所長はクリスマスやカイゼルの誕生日には就寝時刻を遅らせたり自ら俘虜たちにビ−ルを差し入れたりと粋な計らいもし、またスペイン風邪大流行の際は所内の消毒、俘虜の食事の栄養価を高める、通院交通費、体温計氷といった看病の器具等への支出を大幅に増やして最大限の沈静化の努力をしています。
 「板東俘虜収容所」での俘虜のこういった活動に陸軍上層部は批判的だったようで、松江豊寿所長は何度か陸軍省に呼び出され、「収容所運営に金がかかりすぎている」と文句をいわれたようですが、所長はまるで意に介さず最後まで同じやり方を貫き通しました。


 収容所の建物は閉鎖後軍用地として演習用兵舎に使われたり、また第2次大戦後は大陸からの引揚者用住居に使われたりしたのですが、歳月の経過とともに徳島の人たちの脳裏からも俘虜収容所の記憶は薄らいでしまっていました。
 それが収容所閉鎖から40年後の1960年(昭和35年)、ひとつのきっかけから「板東俘虜収容所」のことが再び脚光を浴びることとなったのです。
 時を遡ること12年前の1948年(昭和23年)、敗戦で朝鮮から引き上げてきて引揚者用住宅に入っていた高橋夫妻が裏山の茂みの中で放置されているドイツ兵俘虜の墓を見つけます。収容所の閉鎖数ヶ月前にこの収容所およびその前の徳島、松江、丸亀時代に事故や病気で亡くなったドイツ人11名のために造られたものですが、閉鎖とともに次第に忘れ去られて放置されていました。高橋夫妻自身朝鮮半島から引き上げる際、かの地の日本人墓地にあった先祖の墓を放置して帰って来ただけに、他人事と思えず、以後、春枝夫人が定期的に墓の掃除をし線香を供えていたのです。1960年にそのことが地元の徳島新聞に載り、それを読んだ在日西ドイツ大使夫妻が収容所跡地を訪れ、墓参の後、高橋春枝さんに謝意を述べると同時に母国にこの美談を伝えました。
 すでに西ドイツではハンブルグとフランクフルトにバンド−会という戦友会が出来ていたのですが、この話をきっかけに元俘虜と徳島の古老との間の交流が始まりました。
 1974年には多くの俘虜の出身地だったリュ−ネブルク市と鳴門市が姉妹都市になり、1976年にはドイツ兵の元の墓の横に第1次大戦中俘虜として日本全国の収容所で亡くなった85名のドイツ人の名前がきざまれた「ドイツ兵士合同慰霊碑」が造られました。
 この碑は今でも高橋春枝さん(故人)の息子の高橋敏夫さんが夫人と共に手入れをしています。


 数日前、徳島新聞にこの「板東俘虜収容所」を扱った映画を東映が企画しているという記事が載りました。今はまだ脚本の手直し段階で、撮影はこの夏以降、公開は来年みたいですが、徳島県、鳴門市の関係者や地元住民は大乗り気でいるようです。誰が監督になる予定なのか知りませんが降旗康男さんあたりが監督になってくれれば期待できそうです。この文章もその記事に触発されて書いたものです。

板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜

板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜

二つの山河 (文春文庫)

二つの山河 (文春文庫)

関連するものとして次の本も追加しておきます。 
松山収容所―捕虜と日本人 (中公新書 195)

松山収容所―捕虜と日本人 (中公新書 195)

韓国でロマンポルノ

 もうすでに3月号が店頭に並んでいるのでちょっと古い話になるのですが、「文藝春秋」2月号の巻頭随筆に寺脇研さんが「韓国でロマンポルノ」という一文を載せていました。
 昨年11月、韓国ソウルの映画館で日本の文化庁主宰の日本映画上映会が催され、そこで1965年から1998年の間に製作された日本映画44本が上映されたことの報告の文章でした。
 この上映会の少し前、新聞に「今度、文化庁主宰で韓国で日本映画の連続上映が行なわれる。上映されるのはこんな映画だ。」という記事が載り、上映される映画10本程度の題名が載っていました。
 私はその記事の中の映画作品名を読んで、少し首をかしげたものでした。記事に名のあがっていた映画の題名は今では「新幹線大爆破」(1975年)以外正確には思い出せないので寺脇研さんが書いている文章に出てきている作品名を抜き出させてもらいます。
 「ホワイト・ラブ」(1979年)、「桃尻娘」(1978年)、「ラブ・スト−リ−を君に」(1988年)、「がんばっていきまっしょい」(1998年)、「兄貴の恋人」(1968年)、「ヴァイブレ−タ」(2003年)、「チルソクの夏」(2003年)。
 誤解されないようにいっておくと、これらの作品の出来不出来を問題にしているのではありません。
 韓国で日本映画が全面解禁されたのは、寺脇さんも書いているけれど、わずか1年前なのです。今回の上映会で日本映画をはじめて目にしたという人も多かったのではないかしら。初対面の人と会う時は、皆さん、普通だと、あまりくだけた格好ではなく、それなりの身なりをして出かけませんか。そういう意味で、今回の上映作品選びはもう少し堅苦しいほうが良かったのではないかと思えて仕方ないのです。
 いったい誰が中心になってこのような作品選びをしたのだろうと思っていたのですが、寺脇さんの文章を読んで合点が行きました。寺脇さんならやりそうな選考です。
 「寺脇研」という名前を知ってからかれこれ30数年になります。私も高校から大学にかけての時期、他の多くの人と同じように映画青年でした。徳島にいた高校時代は郵送で「キネマ旬報」を定期購読し、上京してからは当時飯倉辺にあったキネマ旬報社にたびたび行ってはバックナンバ−や増刊号を買いあさっていました。白井佳夫さんが編集長をしていた時代です。当時寺脇研さんはしょっちゅう「キネマ旬報」に投稿していました。彼は私より2歳年上なだけなのだけれど、高校時代(鹿児島ラサ−ル)からすでによく「キネマ旬報」に投稿していたらしい。
 正直に言うと、寺脇さんの映画評と私が映画を見て感じたり考えたりしたこととの間にずいぶん開きがあって、彼の文章に共感することは少なかった。
 当時は彼がキャリアとして文部省に入省していることなど知る由もありませんでした。そのことを知ったのは、偏差値撲滅のため奔走しているということから彼が「ミスタ−偏差値」との異名をとっていた頃です。知ったときは「へ?あの人、文部官僚になってたの」という感じでした。数年前の新学習指導要綱決定の時は軍隊で言う佐官クラスになっていて、「ゆとり教育」路線への変更は主に彼の舵取りのもとで行われました。
 その「ゆとり教育」は現在「どうもよろしくない」との評価が7割に達しているようで、わずか3、4年で変更の方向に向かっているような状態です。
 教育というのは人を作る作業で、機械部品を作るように「こうやればうまくいくだろうと思ってやってみたけれど、どうもうまくいかなかったようで欠陥品が出来ちゃいました」なんて言い訳は許されない世界です。それだけに、ともすれば「無難に今まで通りやっていこう」という保守的な考えが支配的になりがちで、思い切った改革のしにくい世界でもあり、そういう点では寺脇さんを擁護したくなることもあります。
 しかし最近とみに児童の学力低下がいわれ、平均学力の世界ランキングが大きく落ちたとなると、とたんに教育方針を元に戻す方向に動こうとする。「ゆとり教育」を前面に押し出した段階から、これまでのような学力テストの平均点が下がることは予測できていたはずです。「テストの点が悪くてもいい、今までの点取り教育では育てられなかった個性的な才能を育てるのだ」というのがそもそもの「ゆとり教育」の目的ではなかったのですか、といいたくもなるし、トップの文部科学省の方針がそう簡単に右に左にブレていて大丈夫?と思ったりもします。ああしてみようか、それともこうしてみようかといった感じで教える側に確固たる信念がなければ、教わる側がかわいそうです。そんなに軸がブレまくるぐらいなら、最初から「教育とは子供の頭の中に知識という部品を詰めて詰めて詰め込むことです。手持ちの部品が多いほど、それを組み立ててできる製品の種類も性能も多種多様なものになるのです」と言い切る職人先生のほうがずっとましではないでしょうか。
 国の教育問題に関しては私自身考えがしっかり固まっておらず、大体この文のテ−マでもないのでこれ以上深入りは避けます。
 寺脇研さんは2002年からは文化庁文化部長になっていて、またNPOの「日本映画映像文化振興センタ−」の一員としての活動もしているそうです。
 新学習指導要綱の時はよく「民意の支持が大事」といっていました。民主主義というものへの深い理解から発せられた言葉なのか、単にうまくいかなかったときにその責任を国民に転嫁するための伏線として言っていたのかはわかりません。(外務省のお役人なら「ポピュリズムへの迎合」という言葉で非難しそうです。)
 少なくとも今の立場は「ゆとり教育」のときほど「民意の支持」にはこだわらなくてもよいようで、今回韓国で上映された日本映画は(44作品のリストすべてを見たわけでないので断定的なことは言えないのですが)寺脇研さんの好みが濃厚に反映されているようです。
 上映会のスポンサ−が私企業だったら何の文句もありません。上映会がすでに10数回も行なわれていて韓国の人も日本映画のことをそこそこ知っているという場合も「こんな映画も日本にはあるんですよ」というかたちでいいと思います。
 主宰が「文化庁」という日本国を代表する機関であり、しかもこれが韓国ではじめての日本映画の集中上映会となると、やはり「キネマ旬報」ベストテンの上位に選ばれたような、いわゆる「名作」を持っていってもらいたかったと思うのは私だけでしょうか。
(「キネマ旬報」ベストテンに選ばれた作品だけがいい映画と思っているわけではありません。そもそも作品に点数・順位をつけること事態が無理のある行為ではあります。ベストテン選考などは年に一度の「お祭り」に過ぎません。誰も評価しなくても、見た人が感動した作品がその人にとっての名作です。ですが、どうしても日本を代表する映画をピックアップしなければならないときには、広くアンケ−トを募る方法もあるけれど、とりあえず代表的な映画誌のベストテンを参考にするのが手っ取り早い方法だと思っています。)
 いずれにせよ、これから韓国で上映される日本映画の数が増えていって、日本の本当の姿を少しでも多くの韓国の人に知ってもらえるようになって欲しいものです。
 

新幹線を止めた受験生

 二日前から昨日の朝にかけてのテレビで、電車を乗り間違った大学受験生の話を数回、目にしました。
 郡山市で行なわれる受験に向かうべく福島市から上り新幹線に乗った受験生が、自分の乗った新幹線が大宮駅までノンストップで目的の郡山には停車しないことに気づいた。相談を受けた車掌が、すでに郡山駅は過ぎていたものの、ダイヤの安全を確認の上本来は止まらない次の宇都宮駅で新幹線を停車させ、受験生を降ろしたというもの。おかげで受験生は何とか受験に間に合ったらしい。
 何年か前にも同じような話を耳にした記憶がありますが、こういった話はその話を聞く位置によって賛否大きく意見の分かれるところだと思います。
 車掌さんの取った行動を(むろん車掌さん一人の判断ではなかったでしょうが)、血の通った行動と見て心温まる話ととらえる人もいるでしょう。
 ことは受験生自身の時刻表の確認ミスから発しているのに、そんなことで新幹線を本来止まらない駅に止めるというのは行き過ぎだと思う人もいるでしょう。
 あるいは、この受験生にとって、これからの人生、きびしいこともいっぱい待ち受けているはずで、今回のことはそのきびしさを知るいい機会だったのにJR東日本がその芽を一つ摘み取った。親切と思い込んだ甘やかしだという人もいるかもしれない。
 しかし今回この話をテレビで見ていて私が思ったことは、この話の是非ではなくて、この話を何度も報道するマスコミの姿勢がおかしくないかということでした。
 見ていた番組が純然たるニュ-ス番組ではなくワイドショー的な番組だったので、「当たり前だよ。その手の番組を深刻に受け止めるほうがどうかしてるよ」といわれればそれまでの話です。(夜7時台や10時台、11時台のニュ−ス番組でこの話が取り上げられたかどうかは残念ながら知りません。読売新聞には社会面に横組みの囲み記事として載っていました。) 
 50歳まで生きてくると、大学受験なんて一度失敗したぐらいで人生どうというほどのことはないと思えてきますが(思えない人もいるでしょうが)、18歳の受験生には必死の関門に思えて不思議はありません。ひっくり返せば、これまで同じような状況に追い込まれ、自分のミスなのに列車を止めてくれとは言えなくて受験を断念した人たちがこの話を聞いたら歯ぎしりして悔しがると思う。受験に限らず、列車に乗り間違って大事な商談をまとめられなかった人、同じく一緒になろうと思っていた恋人と別れてしまった人、いろいろいることでしょう。彼らだって今回の話にいい感情は持たないと思います。
 いずれにせよ、どれも本人にとっては重大な出来事でしょうが、社会全体から見ると、さして重要と思える出来事ではありません。いくつものテレビ局が競って取り上げるほどのものとは思えない。
 それを、まるで集中砲火のように複数のテレビ局が報道すると、思わぬ形で「そうか新幹線でも熱心に頼めば止めてもらえることがあるのか。今度俺もやってみよう」と考えるバカがでてくるものです。また、ひょっとすると新幹線を止めたことに批判的な人の中には止めた受験生の住所氏名を突き止めて抗議の手紙を出すバカがいるかもしれない。(こういう輩に限って匿名でしか手紙を書けないときてる。)
 多分JR東日本としては、模倣する者が出ないように、このことはあまり報道して欲しくなかったのではないでしょうか。ただ隠し切れないなら、どこか一社に抜け駆け的に「スク−プ!スク−プ!」と大声で叫ばれるよりも、あらゆる報道機関に小さな声で伝えておくほうがいいと判断したように思います。
 昔から「犬が人に噛み付いてもニュ−スにはならない。人が犬に噛み付いたらニュ−スになる」といいます。珍しい話なら報道の話題に乗せたいという気持ちはわかるのですが、自分たちの報道が社会や人にどういう影響を与えるかをよく考えた上での報道の姿勢をとってもらいたいと思います。

漢字の読み書き能力

 新聞に、文部科学省所管財団法人の総合初等教育研究所による小中学生感じ読み書き能力の調査結果が載っていました。
 全国の小学2年生から中学2年生までの1万5千人を対象に調査していて、結果は1980年に実施した時よりもほんのちょっぴり良くなっているとか。
 ただし徳島新聞にも「調べた漢字が必ずしも同じではないなど調査条件が異なり、単純な比較は出来ないが」とあるけれど、私も全くその通りだと思います。
 まあ、先回とほぼ同じならいいんじゃないですか。
 多かった誤答例というのが載っているのですが、それを見ながらいろいろ考えました。
 「読本」=「とくほん」というのは小学6年で習うんだそうですが、私、今までずっと「どくほん」と読んでいました。というか「とくほん」という読み方を知らないではなかったのですが、「どくほん」でもかまわないものと思っていました。「文章読本」という題の本はこれまで谷崎潤一郎三島由紀夫はじめ何人もの人によって書かれて来ましたが、私はそれを一貫して「ぶんしょうどくほん」と読んで来ましたし、この場合は「読本」の上に「文章」がついているので濁って発音してもいいんでしょう。ただ私の場合、「読本」という言葉はほとんど「文章・読本」という言葉でしか使わなかったので「読本」=「どくほん」の感覚が強くあって、それでいいものと思い込んでいました。改めて手元にある岩波の国語辞典を引いてみたのですが、「どくほん」の項は載っていませんでした。
 「善い行い」を「良い行い」と書いた子が68%いたとも書いてありましたが、なぜ「良い行い」がいけないのかよくわからない。
 「八日」を「はつか」と読んだ子が多かったとあるのは、明らかに間違った読み方だけど、そういえば私も小学生の頃あわてたとき「ようか」と「はつか」がこんがらがって間違ってしまうことがよくありました。
 「米作」=「べいさく」という言葉の読みも4年生で1%しか答えられなかったそうで多くが「こめさく」と答えたそうですが、これは「米作地帯」のように連結させないとなかなか読みづらいんじゃないでしょうか。「稲作」という言葉は使っても「米作」という言葉はそれだけでは最近余り使わないように思う。もし私が「『米作』の読みを記せ」といわれたら人の名前と間違えて本気で「よねさく」と答えてしまいそうです。
 「牛」と「午」を誤った小学3年生が18.4%とあるけれど、小学3年なら仕方ないんじゃないですか。まだ少ないほうだと思う。
 「専」の字の右上に点をつけてしまう誤りは昔から多かったはずです。何しろ左に「十」が付いて「博」という字になると点がいるのだもの。
 と、「読み」のことと「書き」のことをランダムに書いてきたのですが、実のところ私は「書く」ほうはさて置いておいて、「読む」ほうはそんなにうるさく「正しい」「間違い」ということないじゃないかという考えの人間なのです。 
 意味さえ間違って伝わらなければ「老舗」を「しにせ」と読もうが「ろうほ」と読もうがどちらでもいいじゃないか。「五月蝿い」なんて、読み方を知らなくったって、日々の暮らしの中で困ることなどいっさいないでしょう。
 それに「言葉」は生きていて日々変化し続けています。私は「白衣」を「びゃくい」と覚えたのですが最近はほとんど「はくい」と読むようです。「開眼」も「かいげん」よりも「かいがん」が多いようです。昔なら×だった答えがいまでは○になっているのです。
 もともと漢字の読みに関しては複雑なかたちで日本に伝わっており、音読みにも呉音と漢音がある上に訓読みが加わって、しかもそれが1種類じゃないときてる。加えてヨ−ロッパあたりから伝わった文物にも適当に漢字を当てて、それがまた歳月とともに変化してきており、日本独自の複雑怪奇な「読み」の体系を作り上げている。そんなものを学校の試験に出して点数つけたって意味ないよというのが私の意見です。
 「麦酒」だの「木乃伊」だの「海月」だのは、全てカナで書けば済むことで(実際、多くの場合カナで書かれています)、読み方を試験に出して学力を評価する道具に使うようなものではないと思っています。
 もし本気で日本人の「読み」の実力を上げようと思うならば、特殊な漢字の「読み」を学校の試験に出すよりも、昔のように新聞や本の漢字に総ルビ(振りガナ)をつけるほうがずっと効果的だと思います。
 
 

江戸川乱歩全集のこと

 昔(今から二、三十年前)、元日の新聞を開く楽しみの一つに、出版社の広告を見ることがありました。新潮社、文藝春秋をはじめとする大手の出版社が、その年の出版予告を大きく載せていたからです。
 それをみて「エッ、あの人の個人全集が今年の秋から出るのか」とか「あの寡作作家の全集で全25巻ということは断簡零墨まで納めた決定版になるな」とか「今年の夏からはあの全集をそろえるために小遣いを始末しておく必要があるな」なんてことを考えて楽しんでいたものです。
 今も広告が載ることは載るのですが、ずいぶんこじんまりとしてしまっています。やはり読者人口が減ってきたせいでしょうか、個人全集の企画も減ってしまったように思います。
 中には、なかなか優れた作品を数多く出しているのに、全集はおろか作品集すら出してもらえない作家も増えてきているようで、運、不運なんてことまで考えてしまいます。
 今、光文社から文庫版で全集の出ている江戸川乱歩なんて、これまで何度「全集」が出たことやら。ちょっと数えても、戦前の平凡社版、昭和29年ごろの春陽堂版、昭和37年には桃源社版、昭和44年の講談社版、同じく講談社の昭和53年版、「推理文庫」と銘打ってはいたけれど作品収録数では最多の昭和62年の講談社の文庫版、そして平成15年の光文社文庫版、文庫では春陽堂も出しています。角川文庫だって一時期全集と呼んでもおかしくないぐらいの量の乱歩の文庫本を出していました。まだ私の知らないものがあるかもしれません。
 江戸川乱歩の日本の推理小説界における功績は私も大いに認めるものですが、ここまで繰り返し出版しなくてもと思ったりもします。
 これもやはり読者人口の減少に関係しているのでしょうが、ダウン・サイジングと装丁の軽装化が個人全集の世界でも進んでいます。最近に珍しくでかい版の全集だなと思ったのは「池波正太郎全集」ぐらいで、岩波書店でもそれまで菊版だった「芥川龍之介全集」や「漱石全集」をB6版に小さくしてしまいました。角川書店の「中原中也全集」や筑摩書房の「宮沢賢治全集」は、それぞれの出版社が先回全集を出した時よりも作品研究が格段に進んで、箱の中にテキストと研究書が同居するかたちで出版されましたが、本はハ−ドカバ−でなくなっちゃいました。
 先にあげた「江戸川乱歩全集」の講談社版3種類を比べると、昭和44年版が真っ黒の函に赤いクロス張りのハードカバ−の本体、本体にはビニ−ルカバ−が付いていました。
 昭和53年版はB6版なのは同じですが、本体は紙製のハ−ドカバ−、先の版についていたビニ−ルカバ−は無くなりました。(ただし、昭和53年版は装丁が横尾忠則さんで、全巻そろえて順番どおり並べると、箱の背の部分が乱歩好みのおどろおどろしい絵柄になるという工夫がなされていました。)
 昭和44年版が子供向け作品を全面カットしていたのに対し、53年版は主だった子供向け作品を収録しているので、収録作品は増えているのですが、巻数が全15巻から全25巻に大幅に増えているのは、1巻あたりのペ−ジ数が減ったからで、収録作品が6割も増えたというわけではありません。
 昭和62年版の文庫版の「江戸川乱歩推理文庫」は見つけうる乱歩作品を全て収めたものです。
 収録作品は版が新しくなるたびに増えていって完璧な「全集」に近づいていっているのに、装丁は簡素化されていく。コレクタ−としてはどれを揃えるべきか悩んでしまいます。
 私の場合は、江戸川乱歩に興味を持ちはじめたのが昭和51年ごろで、日本推理小説界のパイオニアの業績を揃えるべく昭和44年版の全集を少しづつ読みながら買っていたのですが、そこへ新しい全集が出ることを知り、最初から出直して昭和53年講談社版全25巻全集を買い揃えました。後に文庫版全集にもっとたくさんの作品が収められると聞き、大いに悩んだのですが、文庫を揃えて箱入りハ−ドカバ−本を処分する決心もつかず、また、2種類の全集を買い揃えてともに置いておく資金的余裕もスペ−ス的余裕もなかったので(他にも買いたい本は山とあったので)、結局、所有している全集に収録されていない作品が載っている文庫だけを買って補うという形になりました。
 今、私の書庫には昭和44年版「江戸川乱歩全集」が7、8冊と、昭和53年版「江戸川乱歩全集」がコンプリ−ト(揃い)で25冊と、「江戸川乱歩推理文庫」が何10冊か納まっています。
 
 

ふたたび蜂須賀重喜のこと

 1月14日の日記に初めてコメントが付きました。
 正直、今まで[コメントを書く]欄に書き込みを寄せてくれる人がなく、少しさびしい思いもしていたので、このコメントを見つけたときは嬉しかったです。
 コメンテ−タ−さん、ありがとう。
 同じ文章がダブってるようだけど、コメンテイタ−さんも私と同じでこのブログの使い方に不慣れなんだろうと気にはなりませんでした。
 このコメントに対する私の返答を書いておきます。
 まず「この人についてのあなたの見方は童門冬二氏と同様全く一面的です。」の文に関しては、私のような一市民が、かつて美濃部都政下の東京都庁で政策室長まで勤めた政策通と、たとえほめ言葉ではないにせよ、並べてもらえて悪い気はしませんでした。
 ただ童門冬二さんの小説は、かつて講談社文庫から出ていたことは知っていますが、まだ読んでいません。慌ててインタ−ネットで検索して、あらすじだけは知ることが出来ましたが、なるほど中央政界の田沼意次と絡ませているのですね。こういう見方はしたことがなかったので、今度、本を見つけて読むようにします。
 お家騒動とは読んで字のごとく家庭内のいざこざのことで、もともとは大名家に限ったことではなく、早い話我が家の夫婦喧嘩も大げさに言えば「お家騒動」です。ただ世間の人は、その舞台が自分たちのあずかり知らない雲の上でのほうが好奇心が沸くし、規模が大きい分大道具小道具がそろいやすい。そんなことから大名家のいざこざは好んで人の話題にのり、世に「〜騒動」といわれる大名家のいざこざはずいぶんあります。
 ただ江戸時代の前期と後期ではその印象がずいぶん違って見えます。幕藩体制の固まりきっていなかった前期のお家騒動では、たとえ地方の大名家のいざこざでも一歩間違えば幕藩体制を揺るがすことになりかねないということで、その解決に最初から中央政界の人物が絡んでいる事が多い。
 それに対して幕藩体制のがっちり固まってからの後期のお家騒動では、中央政界はたとえ情報は得ていても鷹揚に構えていて最後の最後で「もうそろそろ双方、矛を収めんかい」と乗り出していることが多いように見受けられます。
 自然、同規模の騒動でも前期のほうが「大物」に見えてしまいます。
 「阿波騒動」もその意味では典型的な後期の騒動の図式で、幕府が直接口出ししたのは1769年(明和6年)10月の蜂須賀重喜を隠居させる際の咎めと、あえてあげれば1789年(天明8年)、老中首座、徳川家斉補佐について間もない松平定信寛政の改革を行なった人物)から国許における隠居の重喜の驕奢ぶりを咎められた件ぐらいです。(と思っていたのですが、殿様就任当時から陰で田沼意次が糸を引っ張っていたという童門冬二さんの解釈も話としては面白いですな。)
 現在の一般の日本人の「阿波騒動」に対する評価も、「伊達騒動なら知ってるけど阿波騒動なんて聞いたこともないな」というのが大多数だろうと思っています。伊達騒動は後に山本周五郎さんが「樅ノ木は残った」という小説を書き、それがNHKで大河ドラマになったということが一般大衆の知名度を押し上げている大きな要因ではありますが、いずれにせよ「阿波騒動」は知らない人のほうが多いと思うし、だからこそ日本国中で見てもらえるインタ−ネットのサイト上に蜂須賀重喜のことを書いたのです。まあ読んでくれている人の数が知れているので、たいした影響力はないものの、たとえ一人でも二人でも「へえ、徳島でもそんなことがあったの」と知ってもらえればと思っています。
 ただその際、私は一切「阿波騒動」という言葉は使いませんでした。私的な感覚ですが「騒動」という言葉はどうも大仰に過ぎ、蜂須賀重喜の行動の顛末には似合わないように思っているからです。
 はっきり言って蜂須賀重喜のとった行動は、阿波の歴史の中でみた時、後世につながる大きな変革とはならなかった。良くもならなかったし、コメンテ−タ−さんが言うような悪い方向にも向かわなかった。ただ重喜在任中の15年間は事なかれ主義が主流の家来衆は引っ掻き回され続けた。そう私は解釈しています。
 私の読んだサイトで童門冬二さんの小説のあらすじを紹介している人は、その文章の中で「伊達、仙石、お由羅と並ぶ阿波騒動」という書き方をしていました。またコメンテ−タ−さんは「蜂須賀藩はこの人以後完全に四分五裂したのです。」「この事件(阿波騒動)が大きな動機になって徳島県がめちゃめちゃになって行きます。」と過激に書いておられるけれど、お二人とも、よきにつけ悪しきにつけ、蜂須賀重喜を少し買いかぶりすぎてはいないでしょうか。
 ひょんなことから大企業の社長になった若者が大企業の組織改革に乗り出したものの、力量不足で、大組織の厚い壁の前には何一つ歯が立たず、失脚してしまう。若者の失脚後、会社は何もなかったかのようにこれまでどおりあり続けた。ありきたりで「一面的」な例え方も知れませんが、これが一番実際に近いのではないかと私は考えています。
 ただ、「何も出来なかったものの、何かしようとした若者がいた」ことだけは顕彰しておきたい。そう思っています。
 私は歴史上の出来事を考える時、「善」と「悪」、あるいは「善人」と「悪人」の物差しは出来るだけ使わないように心がけています。(なかなか実践できずについつい腹を立ててしまうことも多いのですが。)
 「善」と「悪」の概念は見る位置でがらりと変わるものですし、「善人」と「悪人」にしても世の中100派パ−セントの「善人」も100パ−セントの「悪人」もいるわけがないし、どこに境を置くかで人それぞれ評価が違ってきて「客観的評価」というものが出来ません。
 例えば「神戸市」です。十数年前、神戸市は「市政を経営する」という言われ方で「私企業のように合理性を追求し、無駄を省いて赤字を出さないようにしている」とほめられ、また「自衛隊は軍隊であり断固反対する」とのポリシ−をはっきりもっている点でも「地方都市には珍しく自分たちの意見をはっきり持っている」とほめる人が多かった。阪神大震災を境に同じことが非難の対象になりました。「合理性を追及して黒字にこだわるあまり、いつくるかわからない災害の備えに対する予算を削りすぎた。」「自衛隊を毛嫌いするあまり、自衛隊との合同災害救助訓練を一切しようとしてこなかった」「当時の法制では地方自治体の首長が援助要請をしなければ自衛隊は出動できなかったのに、神戸市長は要請をしようとせずいたずらに被害を大きくした。」等です。
 善悪の評価とはそういうものです。
 コメンテ−タ−さんが挙げている「五社宮一揆」の事を書きます。コメンテ−タ−さんは「有名な五社宮一揆」と書かれていますが、この一揆のことを知っているのは徳島県民ぐらいで、それも県民のせいぜい2〜3割ではないかと思うので、煩瑣にはなりますが説明から入ります。
 阿波蜂須賀藩では、江戸期を通して約20回ほどの百姓一揆が起きています。これは全国的にみて多いほうで、つまりは蜂須賀藩の年貢の取立てが苛斂誅求を極めていたということです。
 「五社宮一揆」はそのうちの8度目の一揆です。コメンテ−タ−さんの書くように、蜂須賀重喜の着任直後に起こりました。ことは「藍」の専売制度に絡んでいます。阿波は「阿波25万石、藍40万石」と呼ばれたほど染料としての藍の栽培が盛んでした。
 阿波における藍の栽培は、蜂須賀小六が秀吉から貰っていた所領播州龍野から藍種を持ち込んで阿波の地に広めたと書いてある概略書が多いのですが、それより古い史書にも阿波の藍の事が載っているので、蜂須賀持ち込み説は蜂須賀家による意図的な創作ではないかと私は考えています。ただ蜂須賀家が藍の栽培を大いに奨励して阿波全土に広げたことは間違いありません。蜂須賀家にとって藍はすごい収入源でした。
 時代とともに藩の財政が苦しくなってくると、蜂須賀藩はこの藍に専売制を敷き、耕作者から4割、藍玉製造業者(藍玉とは藍染めの原料となる加工品です。これを煮出して布を染めます。なおこの藍玉製造業者のことを藍玉師といいます。徳島の藍住町には「藍の館」という名の藍染展示館がありここでは藍染めの体験が出来ます。徳島にこられた折には皆さん寄ってみてくださいね。)の売上から2分、藍商人からも藍玉1表につき藩札と銀10匁を交換させるというかたちで税をかけました。
 一つの商品に税を3重にも4重にもかけたのです。1733年(享保18年)のことです。藍を栽培する百姓にはずいぶん厳しいものでしたがそれでもこらえました。
 それから21年経った1754年(宝暦4年)、藩は玉師株の制度というのを定めました。相撲の年寄り株と同じでこれを持っていないと相撲部屋が開けないように、玉師株を持たないものは藍玉製造が出来ないというものです。藍玉師の数を制限して特権を与える代わりに、彼らから多額の冥加金を取ることが目的です。その冥加金は結局は値を叩かれる生産農家にしわ寄せとして行きますよね。このへんで藍生産農家の我慢も限界に達しました。
 爆発は2年後の1756年(宝暦6年)に起きました。この年、作物が不作で生産者の収穫が激減したのです。
 この年の閏11月、藍生産者たちは3通の檄文を各村の寺を通して回送します。書かれていた内容は、当時の一揆というものがどういうものだったかとてもよくわかるものなので現代語になおしたものを書いておきます。


「 このたび藍の件について願い出ることについての回章


 藍にはここ二十四、五年の間4割もの税をかけられてきたのに一昨年には玉師株を制定され耕作者一同困窮するようになった。その上、今年は作柄が悪く、お年貢等が納められないばかりか家族、牛馬まで養えなくなった。そこで、来る28日、鮎喰川原で耕作者一同の集会を開くことにした。村々の耕作者は貝、鐘、つく棒を用意し、村々のグル−プごとにシルシをたて、名簿を持って集まること。
 この回章は村々の寺から寺へ伝達し、寺々から人々へ読み聞かせられたい。もしとどめ置いて伝達を怠るにおいては、その寺は焼き打ちしますぞ。以上
 子(ね)閏11月(子はその年の干支で、宝暦6年のことです。)


  麻植、名西、名東、板野諸郡の全耕作者へ」 
 

  (蜂須賀家文書「高原村騒動実録」より)

 
 三通のうち一通は麻植郡三ツ島村の蓮光寺が藩に届けたため中絶したものの、後の2通は藩のきびしい追跡をくぐりぬけ伝達され、閏11月半ばには4郡全域に行き渡り、各地で集会や、梵鐘、太鼓、ほら貝などを鳴らしての百姓のデモが行なわれました。ただ、藩が必死の取締りで一斉デモの予定日だった28日までに首謀者5人を含む10人を逮捕したため、4郡一斉蜂起は頓挫し、翌年3月に首謀者5人ははりつけ、その家族は郡外追放となりました。
 これが阿波の五社宮一揆です。呼び方はいくつもあって「五社騒動」とも「藍玉一揆」ともいいます。コメンテ−タ−さんは「五社宮一揆にはじまる一揆の連発」と、あたかも重喜が領主になったせいで大規模な一揆が頻繁に起きるようになったかのような書き方をされていますが、辺境地域での比較的小規模な一揆はともかく、蜂須賀重喜の治世中の大規模な一揆はこれ一つです。
 ここで蜂須賀重喜の年表と照らし合わせてみてください。彼は1754年(宝暦4年)8月、阿波藩主となりました。ただしこのときはまだ江戸にいて、初めて阿波の国に入部したのは翌1755年(宝暦5年)5月です。
 阿波で10ヶ月を過ごし1756年(宝暦6年)3月には参勤交代のため再び江戸に旅立っています。重喜が次に阿波に帰ったのは1758年5月です。
 つまり彼は五社宮一揆の根本原因となっている藍への重税政策にはなんらタッチしておらず、タッチしていたのは彼のことを困った殿様だと見ていた従来の藩の役人でした。
 記録には五社宮一揆と同じ年に起きた仁宇谷の一揆、翌1757年(宝暦7年)の祖谷山(いややま)各地でのいざこざ、そのまた翌年の1758年(宝暦8年)の美馬郡内の重清一揆などが記されていますが、これらは家臣の所領地内での出来事で、責められるべきはこれも家臣たちであることは論を待ちません。
 中でも私が「どういうことなんだ」と思ってしまうのは、家老の一人、山田織部真恒です。仁宇谷の一揆は彼の知行地内での出来事なのですが、そんな出来事はたいしたこととは思ってないのか、重喜が行なおうとした能力主義政策(職班官禄の制)に真っ向から反対して書いた諌書の中に「…従来の制度で家中も百姓町人もよく収まっている…」「…民は変化を好まないものだから、(このような改革路線には)従わない恐れがある…」「…上下一致、協和してこそ、政治は行なわれるものなのに…」などと、あたかもこれまで世が泰平に治まってきたかのような記述があるのです。
 みため泰平にやってこられたのは藩士ばかりでした。
 この一揆に関してもう一つ付け加えるならば、上記のように一揆の指導者5人ははりつけになりましたが、彼らが要求したことは順次、藩によって受け入れられています。
 この年、藍の売行きが悪かったにもかかわらず、藩は葉藍一万俵を買い上げました。
 2年後の1758年(宝暦8年)の5月には藍耕作税の分割上納を認めるとともに今後の耕作税は藍玉師が納めることとしました。
 そして1760年(宝暦10年)8月に藍場局を廃止し、藍耕作税を全廃するとともに玉師株の制度も廃止しています。
 藍生産農家の要求は重喜の在任中に全て聞き入れられているのです。はりつけになった5人は自分たちの命と引き換えに、阿波藩に藍生産農家の要望を呑ませたことになります。
 (のちに藍作農民たちは処刑された5人のことを神様のようにあがめ、「五社宮明神」として祠まで作って祭るようになりました。「五社宮一揆」の呼び名はここに由来しています。)
 山田織部のような考えの家臣がこのような改革を行なうとはどうしても考えられませんし、重喜という殿様は初めから自身による専制政治を望んでいたので、この藍の専売制の改革はあきらかに重喜自身の考えによるものだと思っています。
 (ちなみに家老の山田織部は諌書の一件で重喜の怒りに触れ窓際に追いやられ、のち1762年(宝暦12年)、重喜を調伏(ちょうぶく)しようとした廉で切腹させられています。)
 またコメンテ−タ−さんは重喜の実父、佐竹義道のことをもっと研究すべきだと書いています。
 じつは蜂須賀重喜が隠居して間もない時期に「阿淡夢物語」「泡夢物語」なる怪文書というか告発小説というか露骨に蜂須賀重喜を誹謗した書物が出回っているのです。どうも阿波藩士が書いたものらしいのですが、署名もなく、密かに写本だけで広めたもののようで、内容も史実と明らかに違う点が多く、史料的価値はお世辞にも高いとはいえない代物です。
 まあ今も昔もこの手の署名なしの文章に信憑性の高いものなどないというのは決まりきったことなのですが、この中身が当時の芝居話よろしく毒殺、毒殺の連発。佐竹義道もじぶんの4男坊を阿波の殿様にするべく阿波藩の家老職にある賀島出雲政良をそそのかして先の殿様やら世子やらに毒を盛らせる役回りで登場します。
 佐竹壱岐守義道というのは秋田新田2万石の領主ですが、先にあった佐竹本家の相続の際、本家の当主、佐竹義真を毒殺して自分の長男義明に本家を継がせたとの評判のあった人です。もちろんそれを証明する文書などどこにも残っておらずあくまで評判に過ぎません。
 「阿淡夢物語」「泡夢物語」の作者も(一人が両方書いたのではなく、何人かによって書き継がれたもののようです)、蜂須賀重喜を誹謗するにあたりこの辺の実父の悪しき評判も取り入れ、(というか、書いているもの自身、実証もせずに噂を信じ込んでいたフシもあります)ついでに、親がそうならその子供もきっと同じに違いない式で殿様は佐竹の親元に相当の額の仕送りをしているに違いないといった下司の勘ぐりまで書いてあります。とにかく私は噂話を元にした「歴史」にはあまり興味がありませんのでこの本のことはここまで。
 まだまだ書きたいことはありますが、いくらでも長くなりそうなので、ここで置きます。