漢字の読み書き能力

 新聞に、文部科学省所管財団法人の総合初等教育研究所による小中学生感じ読み書き能力の調査結果が載っていました。
 全国の小学2年生から中学2年生までの1万5千人を対象に調査していて、結果は1980年に実施した時よりもほんのちょっぴり良くなっているとか。
 ただし徳島新聞にも「調べた漢字が必ずしも同じではないなど調査条件が異なり、単純な比較は出来ないが」とあるけれど、私も全くその通りだと思います。
 まあ、先回とほぼ同じならいいんじゃないですか。
 多かった誤答例というのが載っているのですが、それを見ながらいろいろ考えました。
 「読本」=「とくほん」というのは小学6年で習うんだそうですが、私、今までずっと「どくほん」と読んでいました。というか「とくほん」という読み方を知らないではなかったのですが、「どくほん」でもかまわないものと思っていました。「文章読本」という題の本はこれまで谷崎潤一郎三島由紀夫はじめ何人もの人によって書かれて来ましたが、私はそれを一貫して「ぶんしょうどくほん」と読んで来ましたし、この場合は「読本」の上に「文章」がついているので濁って発音してもいいんでしょう。ただ私の場合、「読本」という言葉はほとんど「文章・読本」という言葉でしか使わなかったので「読本」=「どくほん」の感覚が強くあって、それでいいものと思い込んでいました。改めて手元にある岩波の国語辞典を引いてみたのですが、「どくほん」の項は載っていませんでした。
 「善い行い」を「良い行い」と書いた子が68%いたとも書いてありましたが、なぜ「良い行い」がいけないのかよくわからない。
 「八日」を「はつか」と読んだ子が多かったとあるのは、明らかに間違った読み方だけど、そういえば私も小学生の頃あわてたとき「ようか」と「はつか」がこんがらがって間違ってしまうことがよくありました。
 「米作」=「べいさく」という言葉の読みも4年生で1%しか答えられなかったそうで多くが「こめさく」と答えたそうですが、これは「米作地帯」のように連結させないとなかなか読みづらいんじゃないでしょうか。「稲作」という言葉は使っても「米作」という言葉はそれだけでは最近余り使わないように思う。もし私が「『米作』の読みを記せ」といわれたら人の名前と間違えて本気で「よねさく」と答えてしまいそうです。
 「牛」と「午」を誤った小学3年生が18.4%とあるけれど、小学3年なら仕方ないんじゃないですか。まだ少ないほうだと思う。
 「専」の字の右上に点をつけてしまう誤りは昔から多かったはずです。何しろ左に「十」が付いて「博」という字になると点がいるのだもの。
 と、「読み」のことと「書き」のことをランダムに書いてきたのですが、実のところ私は「書く」ほうはさて置いておいて、「読む」ほうはそんなにうるさく「正しい」「間違い」ということないじゃないかという考えの人間なのです。 
 意味さえ間違って伝わらなければ「老舗」を「しにせ」と読もうが「ろうほ」と読もうがどちらでもいいじゃないか。「五月蝿い」なんて、読み方を知らなくったって、日々の暮らしの中で困ることなどいっさいないでしょう。
 それに「言葉」は生きていて日々変化し続けています。私は「白衣」を「びゃくい」と覚えたのですが最近はほとんど「はくい」と読むようです。「開眼」も「かいげん」よりも「かいがん」が多いようです。昔なら×だった答えがいまでは○になっているのです。
 もともと漢字の読みに関しては複雑なかたちで日本に伝わっており、音読みにも呉音と漢音がある上に訓読みが加わって、しかもそれが1種類じゃないときてる。加えてヨ−ロッパあたりから伝わった文物にも適当に漢字を当てて、それがまた歳月とともに変化してきており、日本独自の複雑怪奇な「読み」の体系を作り上げている。そんなものを学校の試験に出して点数つけたって意味ないよというのが私の意見です。
 「麦酒」だの「木乃伊」だの「海月」だのは、全てカナで書けば済むことで(実際、多くの場合カナで書かれています)、読み方を試験に出して学力を評価する道具に使うようなものではないと思っています。
 もし本気で日本人の「読み」の実力を上げようと思うならば、特殊な漢字の「読み」を学校の試験に出すよりも、昔のように新聞や本の漢字に総ルビ(振りガナ)をつけるほうがずっと効果的だと思います。