「板東俘虜収容所」のこと

 徳島の鳴門市大麻町に「ドイツ館」という建物があります。
 「ドイツ」の名前は今からおよそ90年前にこの地にあったドイツ人捕虜の収容所に由来しています。
 その収容所の正式の名前は「板東俘虜収容所」といいます。
 「俘虜」は「捕虜」と同じ意味です。1945年(昭和20年)までは「俘虜」(ふりょ)という言葉は普通に使われていました。(「俘虜」という言葉から大岡昇平さんの「俘虜記」という小説を思い浮かべる人も多いと思います。)が、1946年(昭和21年)に定められた「当用漢字」から「俘」という漢字がはじき出されたため、以後、新聞等のメディアが同義語の「捕虜」を使用するようになり、こんにち「俘虜」という言葉は死語となってしまいました。この文章に限ってはこの先「俘虜」で統一して書かせてもらいます。
 1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて戦われた第1次世界大戦は、主戦場はヨ−ロッパ大陸でしたが、戦火はアフリカ大陸・アジア大陸にも飛び火し、日本も当時イギリスと日英同盟を結んでいたことからこの戦争に参戦、中国大陸の青島(チンタオ)でドイツ軍と戦いました。
 その際のドイツ兵俘虜4600名余りが戦争終結まで日本国内の俘虜収容所で暮らすこととなったのです。


 はじめ彼らは日本の東京以西の12箇所の収容所に収容されました。
 四国には松山、丸亀、徳島(徳島の最初の収容所は現・徳島市万代町にありました)の3個所に収容所があったのですが、急ごしらえで建物が窮屈だったり、統合することで俘虜管理を合理化することなどを理由に、現・鳴門市大麻町板東の地に敷地面積12000坪の俘虜収容所が造営されました。
 板東は徳島市内から吉野川を越えて北へ10数キロ。阿讃山地の東端ちかくの山ふもとにある農村地帯です。
 1917年(大正6年)4月、「徳島」の206名、「松山」の414名、「丸亀」の333名が、この新しい収容所に収容されることになりました。約1000名のドイツ兵俘虜を収容した「板東俘虜収容所」の誕生です。
 この「板東俘虜収容所」は、1917年(大正6年)4月にスタ−トしてから、翌1918年(大正7年)11月の大戦終結、翌々1919年(大正8年)6月のベルサイユ講和条約を経て1920年(大正9年)1月、最後まで残っていた俘虜92名を収容所から送り出して、1ヶ月後の2月8日その使命を果たし終えるまで、2年10ヶ月の間だけ歴史の中に存在しました。


 わずか2年10ヶ月しか存在しなかった「板東俘虜収容所」がこんにちも語り継がれる理由は、ひとえにこの収容所の俘虜の扱いにあります。日本国内の他の収容所では俘虜を精神的肉体的に痛めつけるところが多くみられたのに対し、この収容所では俘虜の人権を最大限に尊重して出来うる限りの自由を俘虜に与えていました。


 「板東俘虜収容所」の研究をする人たちに一つの定説があります。「板東俘虜収容所」が他の収容所と比べて俘虜たちにとって暮らしやすかったのは所長の陸軍歩兵大佐松江豊寿(まつえ・とよひさ・現福島県会津若松市生まれ・板東俘虜収容所開設当時満43歳)の人間性によるものだということです。
 彼を主人公に「二つの山河」という作品を書き直木賞を受賞した中村彰彦さんは、戊辰戦争で徹底的に痛めつけられ明治に入ってからも長いあいだ「賊軍」という白い目でみられ続けた会津人に生まれ育ったことが同じような立場のドイツ人俘虜に対する「やさしさ」になったのではないかと解釈しています。
 そのおかげで収容所内の中庭には俘虜自身の運営する家具屋、仕立て屋、鍛冶屋、靴屋、楽器修理屋、写真屋、ケ−キ屋、製本屋、音楽塾、理容店、等々の各種店舗小屋が並び、俘虜たちの居住する各棟にも煙草・ビ−ルの販売所、食堂、浴場、ビリヤ−ド台、製パン所、蔵書6000冊の図書館から収容所内の新聞を発行する印刷所まであったそうで、そこでは新聞だけでなく、俘虜の書いた原稿を本にして出版したり、収容所内で通用する紙幣や切手も発行していたらしい。まるで鉄条網で囲まれた内側にドイツ人1000人の町が出来たようなものだったようです。
 収容所のある板東村の村民たちがそれまで青い目の外国人をほとんど目にしたことがなかったことが、ちょうどそれまで人間を見たことのない動物が恐怖心を抱くことなく人間に近づいてくるのと同じように、ドイツ人俘虜に気安く近づく結果を生み、これもいい方向に働いたのではないでしょうか。(中途半端に外国人と接してなまじその違いをわかってくると「外国人はなにを考えているかわからない恐ろしいもの」という観念が先に立って、悪い結果を生みやすい。ほとんど同時期の1923年(大正12年)に起こった関東大震災の時の都会での朝鮮人虐殺などはその例だと思います。)
 俘虜たちは収容所内だけでなく、例えば夏の暑い日には収容所から10キロも離れている瀬戸内の海岸まで遠足を兼ねた海水浴に出かけていたそうで、そんなおり山道で彼らのことを知っている村民と出くわすと、村民は覚えたてのドイツ語で「グ−テンタ−ク」と挨拶し、俘虜のほうは「こんにちは」と日本語で挨拶を返すようなことがよくあったらしい。
 それだけではなく専門知識を持った俘虜には講師になってもらい、ドイツの文明文化を直に教えてもらう講演会をよく開いているし、音楽はオ−ケストラと合唱団を複数組造るし、「スポ−ツ委員会」は、ホッケ−、テニス、フットボ−ル、ハンドボ−ル、、レスリング、クリケット、ボクシング、水泳などのグル−プを造ってゲ−ムをたのしんでいたようです。
 ドイツ兵俘虜が何か変わったことをはじめるたびに好奇心から首を突っ込んでそれを見ている地元の村民やその他の県民の姿が目に浮かびます。
 収容所開設からほぼ1年後の1918年(大正7年)3月には収容所近くにある霊山寺(四国八十八カ所の一番札所です)と板野郡公会堂を会場にして2週間にわたり「俘虜作品展示会」を開催、入場者数は延50000人を超えています。徳島県知事、軍徳島管区司令官、学校からの集団児童らとともに東久邇宮も来られ、さながら小ぢんまりとしたドイツ博覧会といった風だったようです。
 こういった俘虜の活動に松江所長は寛大というより積極的だったぐらいです。
 べ−トーベンの交響曲第九番歓喜」の演奏も、この俘虜たちで結成した徳島オ−ケストラが1918年(大正7年)6月1日におこなったものが本邦初演といわれています。
英米文学者で評論家であった中野好夫さんは、お父さんが国鉄職員だった関係で若者時代各地を転々と移り住んだ人ですが、旧制中学のころ徳島でも暮らしています。そのときこの俘虜たちのおかげでオーケストラの演奏というものを初めて聴いたと、その自伝の中で書いています。)
 他にケチャップ、ベ−コン、ハム、ソ−セ−ジ、ブランデ−といった加工食品の造り方、西洋野菜の栽培法、豚の去勢法、植物標本の作り方、動物標本の作り方、石鹸製造法、皮革加工法、石橋の作り方等々、短い期間に驚くべき種類の知識を徳島の地に置いて帰りました。
 1000人の俘虜のうちの多くが、いわゆる職業軍人ではなく、何らかの専門知識か専門技術を持ってはるばる中国まで働きにきていた人々で組織された義勇軍だったことが文化交流にさいわいしたようです。
 それに答えるかのように松江所長はクリスマスやカイゼルの誕生日には就寝時刻を遅らせたり自ら俘虜たちにビ−ルを差し入れたりと粋な計らいもし、またスペイン風邪大流行の際は所内の消毒、俘虜の食事の栄養価を高める、通院交通費、体温計氷といった看病の器具等への支出を大幅に増やして最大限の沈静化の努力をしています。
 「板東俘虜収容所」での俘虜のこういった活動に陸軍上層部は批判的だったようで、松江豊寿所長は何度か陸軍省に呼び出され、「収容所運営に金がかかりすぎている」と文句をいわれたようですが、所長はまるで意に介さず最後まで同じやり方を貫き通しました。


 収容所の建物は閉鎖後軍用地として演習用兵舎に使われたり、また第2次大戦後は大陸からの引揚者用住居に使われたりしたのですが、歳月の経過とともに徳島の人たちの脳裏からも俘虜収容所の記憶は薄らいでしまっていました。
 それが収容所閉鎖から40年後の1960年(昭和35年)、ひとつのきっかけから「板東俘虜収容所」のことが再び脚光を浴びることとなったのです。
 時を遡ること12年前の1948年(昭和23年)、敗戦で朝鮮から引き上げてきて引揚者用住宅に入っていた高橋夫妻が裏山の茂みの中で放置されているドイツ兵俘虜の墓を見つけます。収容所の閉鎖数ヶ月前にこの収容所およびその前の徳島、松江、丸亀時代に事故や病気で亡くなったドイツ人11名のために造られたものですが、閉鎖とともに次第に忘れ去られて放置されていました。高橋夫妻自身朝鮮半島から引き上げる際、かの地の日本人墓地にあった先祖の墓を放置して帰って来ただけに、他人事と思えず、以後、春枝夫人が定期的に墓の掃除をし線香を供えていたのです。1960年にそのことが地元の徳島新聞に載り、それを読んだ在日西ドイツ大使夫妻が収容所跡地を訪れ、墓参の後、高橋春枝さんに謝意を述べると同時に母国にこの美談を伝えました。
 すでに西ドイツではハンブルグとフランクフルトにバンド−会という戦友会が出来ていたのですが、この話をきっかけに元俘虜と徳島の古老との間の交流が始まりました。
 1974年には多くの俘虜の出身地だったリュ−ネブルク市と鳴門市が姉妹都市になり、1976年にはドイツ兵の元の墓の横に第1次大戦中俘虜として日本全国の収容所で亡くなった85名のドイツ人の名前がきざまれた「ドイツ兵士合同慰霊碑」が造られました。
 この碑は今でも高橋春枝さん(故人)の息子の高橋敏夫さんが夫人と共に手入れをしています。


 数日前、徳島新聞にこの「板東俘虜収容所」を扱った映画を東映が企画しているという記事が載りました。今はまだ脚本の手直し段階で、撮影はこの夏以降、公開は来年みたいですが、徳島県、鳴門市の関係者や地元住民は大乗り気でいるようです。誰が監督になる予定なのか知りませんが降旗康男さんあたりが監督になってくれれば期待できそうです。この文章もその記事に触発されて書いたものです。

板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜

板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜

二つの山河 (文春文庫)

二つの山河 (文春文庫)

関連するものとして次の本も追加しておきます。 
松山収容所―捕虜と日本人 (中公新書 195)

松山収容所―捕虜と日本人 (中公新書 195)