ふたたび蜂須賀重喜のこと

 1月14日の日記に初めてコメントが付きました。
 正直、今まで[コメントを書く]欄に書き込みを寄せてくれる人がなく、少しさびしい思いもしていたので、このコメントを見つけたときは嬉しかったです。
 コメンテ−タ−さん、ありがとう。
 同じ文章がダブってるようだけど、コメンテイタ−さんも私と同じでこのブログの使い方に不慣れなんだろうと気にはなりませんでした。
 このコメントに対する私の返答を書いておきます。
 まず「この人についてのあなたの見方は童門冬二氏と同様全く一面的です。」の文に関しては、私のような一市民が、かつて美濃部都政下の東京都庁で政策室長まで勤めた政策通と、たとえほめ言葉ではないにせよ、並べてもらえて悪い気はしませんでした。
 ただ童門冬二さんの小説は、かつて講談社文庫から出ていたことは知っていますが、まだ読んでいません。慌ててインタ−ネットで検索して、あらすじだけは知ることが出来ましたが、なるほど中央政界の田沼意次と絡ませているのですね。こういう見方はしたことがなかったので、今度、本を見つけて読むようにします。
 お家騒動とは読んで字のごとく家庭内のいざこざのことで、もともとは大名家に限ったことではなく、早い話我が家の夫婦喧嘩も大げさに言えば「お家騒動」です。ただ世間の人は、その舞台が自分たちのあずかり知らない雲の上でのほうが好奇心が沸くし、規模が大きい分大道具小道具がそろいやすい。そんなことから大名家のいざこざは好んで人の話題にのり、世に「〜騒動」といわれる大名家のいざこざはずいぶんあります。
 ただ江戸時代の前期と後期ではその印象がずいぶん違って見えます。幕藩体制の固まりきっていなかった前期のお家騒動では、たとえ地方の大名家のいざこざでも一歩間違えば幕藩体制を揺るがすことになりかねないということで、その解決に最初から中央政界の人物が絡んでいる事が多い。
 それに対して幕藩体制のがっちり固まってからの後期のお家騒動では、中央政界はたとえ情報は得ていても鷹揚に構えていて最後の最後で「もうそろそろ双方、矛を収めんかい」と乗り出していることが多いように見受けられます。
 自然、同規模の騒動でも前期のほうが「大物」に見えてしまいます。
 「阿波騒動」もその意味では典型的な後期の騒動の図式で、幕府が直接口出ししたのは1769年(明和6年)10月の蜂須賀重喜を隠居させる際の咎めと、あえてあげれば1789年(天明8年)、老中首座、徳川家斉補佐について間もない松平定信寛政の改革を行なった人物)から国許における隠居の重喜の驕奢ぶりを咎められた件ぐらいです。(と思っていたのですが、殿様就任当時から陰で田沼意次が糸を引っ張っていたという童門冬二さんの解釈も話としては面白いですな。)
 現在の一般の日本人の「阿波騒動」に対する評価も、「伊達騒動なら知ってるけど阿波騒動なんて聞いたこともないな」というのが大多数だろうと思っています。伊達騒動は後に山本周五郎さんが「樅ノ木は残った」という小説を書き、それがNHKで大河ドラマになったということが一般大衆の知名度を押し上げている大きな要因ではありますが、いずれにせよ「阿波騒動」は知らない人のほうが多いと思うし、だからこそ日本国中で見てもらえるインタ−ネットのサイト上に蜂須賀重喜のことを書いたのです。まあ読んでくれている人の数が知れているので、たいした影響力はないものの、たとえ一人でも二人でも「へえ、徳島でもそんなことがあったの」と知ってもらえればと思っています。
 ただその際、私は一切「阿波騒動」という言葉は使いませんでした。私的な感覚ですが「騒動」という言葉はどうも大仰に過ぎ、蜂須賀重喜の行動の顛末には似合わないように思っているからです。
 はっきり言って蜂須賀重喜のとった行動は、阿波の歴史の中でみた時、後世につながる大きな変革とはならなかった。良くもならなかったし、コメンテ−タ−さんが言うような悪い方向にも向かわなかった。ただ重喜在任中の15年間は事なかれ主義が主流の家来衆は引っ掻き回され続けた。そう私は解釈しています。
 私の読んだサイトで童門冬二さんの小説のあらすじを紹介している人は、その文章の中で「伊達、仙石、お由羅と並ぶ阿波騒動」という書き方をしていました。またコメンテ−タ−さんは「蜂須賀藩はこの人以後完全に四分五裂したのです。」「この事件(阿波騒動)が大きな動機になって徳島県がめちゃめちゃになって行きます。」と過激に書いておられるけれど、お二人とも、よきにつけ悪しきにつけ、蜂須賀重喜を少し買いかぶりすぎてはいないでしょうか。
 ひょんなことから大企業の社長になった若者が大企業の組織改革に乗り出したものの、力量不足で、大組織の厚い壁の前には何一つ歯が立たず、失脚してしまう。若者の失脚後、会社は何もなかったかのようにこれまでどおりあり続けた。ありきたりで「一面的」な例え方も知れませんが、これが一番実際に近いのではないかと私は考えています。
 ただ、「何も出来なかったものの、何かしようとした若者がいた」ことだけは顕彰しておきたい。そう思っています。
 私は歴史上の出来事を考える時、「善」と「悪」、あるいは「善人」と「悪人」の物差しは出来るだけ使わないように心がけています。(なかなか実践できずについつい腹を立ててしまうことも多いのですが。)
 「善」と「悪」の概念は見る位置でがらりと変わるものですし、「善人」と「悪人」にしても世の中100派パ−セントの「善人」も100パ−セントの「悪人」もいるわけがないし、どこに境を置くかで人それぞれ評価が違ってきて「客観的評価」というものが出来ません。
 例えば「神戸市」です。十数年前、神戸市は「市政を経営する」という言われ方で「私企業のように合理性を追求し、無駄を省いて赤字を出さないようにしている」とほめられ、また「自衛隊は軍隊であり断固反対する」とのポリシ−をはっきりもっている点でも「地方都市には珍しく自分たちの意見をはっきり持っている」とほめる人が多かった。阪神大震災を境に同じことが非難の対象になりました。「合理性を追及して黒字にこだわるあまり、いつくるかわからない災害の備えに対する予算を削りすぎた。」「自衛隊を毛嫌いするあまり、自衛隊との合同災害救助訓練を一切しようとしてこなかった」「当時の法制では地方自治体の首長が援助要請をしなければ自衛隊は出動できなかったのに、神戸市長は要請をしようとせずいたずらに被害を大きくした。」等です。
 善悪の評価とはそういうものです。
 コメンテ−タ−さんが挙げている「五社宮一揆」の事を書きます。コメンテ−タ−さんは「有名な五社宮一揆」と書かれていますが、この一揆のことを知っているのは徳島県民ぐらいで、それも県民のせいぜい2〜3割ではないかと思うので、煩瑣にはなりますが説明から入ります。
 阿波蜂須賀藩では、江戸期を通して約20回ほどの百姓一揆が起きています。これは全国的にみて多いほうで、つまりは蜂須賀藩の年貢の取立てが苛斂誅求を極めていたということです。
 「五社宮一揆」はそのうちの8度目の一揆です。コメンテ−タ−さんの書くように、蜂須賀重喜の着任直後に起こりました。ことは「藍」の専売制度に絡んでいます。阿波は「阿波25万石、藍40万石」と呼ばれたほど染料としての藍の栽培が盛んでした。
 阿波における藍の栽培は、蜂須賀小六が秀吉から貰っていた所領播州龍野から藍種を持ち込んで阿波の地に広めたと書いてある概略書が多いのですが、それより古い史書にも阿波の藍の事が載っているので、蜂須賀持ち込み説は蜂須賀家による意図的な創作ではないかと私は考えています。ただ蜂須賀家が藍の栽培を大いに奨励して阿波全土に広げたことは間違いありません。蜂須賀家にとって藍はすごい収入源でした。
 時代とともに藩の財政が苦しくなってくると、蜂須賀藩はこの藍に専売制を敷き、耕作者から4割、藍玉製造業者(藍玉とは藍染めの原料となる加工品です。これを煮出して布を染めます。なおこの藍玉製造業者のことを藍玉師といいます。徳島の藍住町には「藍の館」という名の藍染展示館がありここでは藍染めの体験が出来ます。徳島にこられた折には皆さん寄ってみてくださいね。)の売上から2分、藍商人からも藍玉1表につき藩札と銀10匁を交換させるというかたちで税をかけました。
 一つの商品に税を3重にも4重にもかけたのです。1733年(享保18年)のことです。藍を栽培する百姓にはずいぶん厳しいものでしたがそれでもこらえました。
 それから21年経った1754年(宝暦4年)、藩は玉師株の制度というのを定めました。相撲の年寄り株と同じでこれを持っていないと相撲部屋が開けないように、玉師株を持たないものは藍玉製造が出来ないというものです。藍玉師の数を制限して特権を与える代わりに、彼らから多額の冥加金を取ることが目的です。その冥加金は結局は値を叩かれる生産農家にしわ寄せとして行きますよね。このへんで藍生産農家の我慢も限界に達しました。
 爆発は2年後の1756年(宝暦6年)に起きました。この年、作物が不作で生産者の収穫が激減したのです。
 この年の閏11月、藍生産者たちは3通の檄文を各村の寺を通して回送します。書かれていた内容は、当時の一揆というものがどういうものだったかとてもよくわかるものなので現代語になおしたものを書いておきます。


「 このたび藍の件について願い出ることについての回章


 藍にはここ二十四、五年の間4割もの税をかけられてきたのに一昨年には玉師株を制定され耕作者一同困窮するようになった。その上、今年は作柄が悪く、お年貢等が納められないばかりか家族、牛馬まで養えなくなった。そこで、来る28日、鮎喰川原で耕作者一同の集会を開くことにした。村々の耕作者は貝、鐘、つく棒を用意し、村々のグル−プごとにシルシをたて、名簿を持って集まること。
 この回章は村々の寺から寺へ伝達し、寺々から人々へ読み聞かせられたい。もしとどめ置いて伝達を怠るにおいては、その寺は焼き打ちしますぞ。以上
 子(ね)閏11月(子はその年の干支で、宝暦6年のことです。)


  麻植、名西、名東、板野諸郡の全耕作者へ」 
 

  (蜂須賀家文書「高原村騒動実録」より)

 
 三通のうち一通は麻植郡三ツ島村の蓮光寺が藩に届けたため中絶したものの、後の2通は藩のきびしい追跡をくぐりぬけ伝達され、閏11月半ばには4郡全域に行き渡り、各地で集会や、梵鐘、太鼓、ほら貝などを鳴らしての百姓のデモが行なわれました。ただ、藩が必死の取締りで一斉デモの予定日だった28日までに首謀者5人を含む10人を逮捕したため、4郡一斉蜂起は頓挫し、翌年3月に首謀者5人ははりつけ、その家族は郡外追放となりました。
 これが阿波の五社宮一揆です。呼び方はいくつもあって「五社騒動」とも「藍玉一揆」ともいいます。コメンテ−タ−さんは「五社宮一揆にはじまる一揆の連発」と、あたかも重喜が領主になったせいで大規模な一揆が頻繁に起きるようになったかのような書き方をされていますが、辺境地域での比較的小規模な一揆はともかく、蜂須賀重喜の治世中の大規模な一揆はこれ一つです。
 ここで蜂須賀重喜の年表と照らし合わせてみてください。彼は1754年(宝暦4年)8月、阿波藩主となりました。ただしこのときはまだ江戸にいて、初めて阿波の国に入部したのは翌1755年(宝暦5年)5月です。
 阿波で10ヶ月を過ごし1756年(宝暦6年)3月には参勤交代のため再び江戸に旅立っています。重喜が次に阿波に帰ったのは1758年5月です。
 つまり彼は五社宮一揆の根本原因となっている藍への重税政策にはなんらタッチしておらず、タッチしていたのは彼のことを困った殿様だと見ていた従来の藩の役人でした。
 記録には五社宮一揆と同じ年に起きた仁宇谷の一揆、翌1757年(宝暦7年)の祖谷山(いややま)各地でのいざこざ、そのまた翌年の1758年(宝暦8年)の美馬郡内の重清一揆などが記されていますが、これらは家臣の所領地内での出来事で、責められるべきはこれも家臣たちであることは論を待ちません。
 中でも私が「どういうことなんだ」と思ってしまうのは、家老の一人、山田織部真恒です。仁宇谷の一揆は彼の知行地内での出来事なのですが、そんな出来事はたいしたこととは思ってないのか、重喜が行なおうとした能力主義政策(職班官禄の制)に真っ向から反対して書いた諌書の中に「…従来の制度で家中も百姓町人もよく収まっている…」「…民は変化を好まないものだから、(このような改革路線には)従わない恐れがある…」「…上下一致、協和してこそ、政治は行なわれるものなのに…」などと、あたかもこれまで世が泰平に治まってきたかのような記述があるのです。
 みため泰平にやってこられたのは藩士ばかりでした。
 この一揆に関してもう一つ付け加えるならば、上記のように一揆の指導者5人ははりつけになりましたが、彼らが要求したことは順次、藩によって受け入れられています。
 この年、藍の売行きが悪かったにもかかわらず、藩は葉藍一万俵を買い上げました。
 2年後の1758年(宝暦8年)の5月には藍耕作税の分割上納を認めるとともに今後の耕作税は藍玉師が納めることとしました。
 そして1760年(宝暦10年)8月に藍場局を廃止し、藍耕作税を全廃するとともに玉師株の制度も廃止しています。
 藍生産農家の要求は重喜の在任中に全て聞き入れられているのです。はりつけになった5人は自分たちの命と引き換えに、阿波藩に藍生産農家の要望を呑ませたことになります。
 (のちに藍作農民たちは処刑された5人のことを神様のようにあがめ、「五社宮明神」として祠まで作って祭るようになりました。「五社宮一揆」の呼び名はここに由来しています。)
 山田織部のような考えの家臣がこのような改革を行なうとはどうしても考えられませんし、重喜という殿様は初めから自身による専制政治を望んでいたので、この藍の専売制の改革はあきらかに重喜自身の考えによるものだと思っています。
 (ちなみに家老の山田織部は諌書の一件で重喜の怒りに触れ窓際に追いやられ、のち1762年(宝暦12年)、重喜を調伏(ちょうぶく)しようとした廉で切腹させられています。)
 またコメンテ−タ−さんは重喜の実父、佐竹義道のことをもっと研究すべきだと書いています。
 じつは蜂須賀重喜が隠居して間もない時期に「阿淡夢物語」「泡夢物語」なる怪文書というか告発小説というか露骨に蜂須賀重喜を誹謗した書物が出回っているのです。どうも阿波藩士が書いたものらしいのですが、署名もなく、密かに写本だけで広めたもののようで、内容も史実と明らかに違う点が多く、史料的価値はお世辞にも高いとはいえない代物です。
 まあ今も昔もこの手の署名なしの文章に信憑性の高いものなどないというのは決まりきったことなのですが、この中身が当時の芝居話よろしく毒殺、毒殺の連発。佐竹義道もじぶんの4男坊を阿波の殿様にするべく阿波藩の家老職にある賀島出雲政良をそそのかして先の殿様やら世子やらに毒を盛らせる役回りで登場します。
 佐竹壱岐守義道というのは秋田新田2万石の領主ですが、先にあった佐竹本家の相続の際、本家の当主、佐竹義真を毒殺して自分の長男義明に本家を継がせたとの評判のあった人です。もちろんそれを証明する文書などどこにも残っておらずあくまで評判に過ぎません。
 「阿淡夢物語」「泡夢物語」の作者も(一人が両方書いたのではなく、何人かによって書き継がれたもののようです)、蜂須賀重喜を誹謗するにあたりこの辺の実父の悪しき評判も取り入れ、(というか、書いているもの自身、実証もせずに噂を信じ込んでいたフシもあります)ついでに、親がそうならその子供もきっと同じに違いない式で殿様は佐竹の親元に相当の額の仕送りをしているに違いないといった下司の勘ぐりまで書いてあります。とにかく私は噂話を元にした「歴史」にはあまり興味がありませんのでこの本のことはここまで。
 まだまだ書きたいことはありますが、いくらでも長くなりそうなので、ここで置きます。