庚午事変(別名稲田騒動)

田尾和俊さん__去年10月1日と2日の日記「さぬきうどん」①②で取り上げた「恐るべきさぬきうどん」が「ゲリラうどん通ごっこ」の題で「タウン情報かがわ」(ホットカプセル社)に連載されていた当時の同誌の編集長です。
 「恐るべきさぬきうどん」は、香川のうどん好き数人のメンバ-からなる「麺通団」と称するグル-プが香川県下のうどん屋を食べ歩いて議論するという形式で書かれた本ですが、田尾さんはその「麺通団」の団長であり、実質上の「恐るべきさぬきうどん」の著者でもあります。(現在はホットカプセル社を退社して四国学院大学の教授に迎えられているそうです。)
 最近この人が「超麺通団2団長の事件簿『うどんの人』の巻」という本を西日本出版社から出しました。
 私はホットカプセル社から出版されている「恐るべきさぬきうどん」の第1集からの読者なので(この人の絡んでいる本といえば「笑いの文化人講座」からの読者です)、追っかけでこの本も買って読みました。
 そして今回はじめて気が付いたのですが、本のカバ-の折り返しに書かれた田尾さんの紹介文に「99年、讃岐うどんブ−ムを起こしたことが認められ、高松市文化奨励賞を受賞。」とありました。
 この日記「さぬきうどん」②(10月2日)の項の最後に「香川県は『恐るべきさぬきうどん』と『うまひゃひゃさぬきうどん』という二つの著作に対して『讃岐うどん』を日本中に知らしめた功績を賞すべきだ」ということを書いたのですが、この文の5年も前に少なくとも高松市は「恐るべきさぬきうどん」の著者を表彰していたわけです。
 高松市の粋な計らいに拍手を送ると同時に追記として書いておきます。


 これも最近知ったことですが、吉永小百合さんの最近作「北の零年」は明治3年(1870年)、阿波徳島藩で起きた庚午事変(別名稲田騒動)の処分で、北海道開拓を命じられた稲田家家臣七百数十名の、開拓地での苦労を描いた作品だそうな。
 この題材は、北海道出身の作家船山馨さんが「お登勢」「続・お登勢」という長編小説で描いており何度かテレビドラマ化もされているので年配の方はご存知の方も多いかもしれません。
 庚午事変(別名稲田騒動)とは明治維新の際に阿波徳島藩の内部で起きた内輪もめで、徳島にとってみれば、江戸期を通して阿波徳島藩の領地であった淡路島がこの内輪もめのせいで結果的に今の兵庫県に移ったという実にばかげた(と私は思っています)事件です。
 江戸期、阿波の殿様は蜂須賀家でした。もとをただせば尾張の豪族で、戦国末期に豊臣秀吉に仕えたことでとんとん拍子に出世して阿波の国と淡路の国2国の太守の地位を得ました。秀吉に使えた初代の蜂須賀小六正勝は(絵本太閤記などでは盗賊の親分として日吉丸こと秀吉と矢作橋で出会うことになっていますが)生涯秀吉の側に仕えたようで、その子蜂須賀家政が阿波藩の藩祖となっています。
 稲田家というのは戦国期この蜂須賀家と同格の盟友だった一族ですが、秀吉の配下に入るにあたり、指揮系統上蜂須賀の下にまわり、そのまま蜂須賀家が国持ちの大名になってからもその家老職に甘んじてきた家でした。それでも蜂須賀家は盟友稲田家に対し淡路の国1国と阿波の国内の美馬郡を領地に与えるという最大の待遇で遇しており、平和な時代はそれでとりあえずこともなくいっていました。(ただし稲田の家来は、蜂須賀の家来と違って、蜂須賀の家来(稲田)の家来、つまり陪臣ということで差別を受けていたようで、その憤懣は蓄積されていたようですが。)
 こういう状況に火をつけることになったのが維新の動乱でした。
 幕末維新の動乱期に、時勢を読む眼もなく確固たる藩の姿勢もなかった阿波蜂須賀藩は洞ヶ峠を決め込み、様子をみていて勝ちそうな側につこうとしました。
 そんな蜂須賀家の姿勢に反して、稲田家だけが鳥羽伏見の戦いの際いち早く軍勢を薩長軍側に送り込み倒幕の旗幟を鮮明にして名をあげたのです。
 この稲田家の行動は藩内にあっては藩の家老職にありながら藩の方針に従わずスタンドプレーをしたということで藩士たちに「稲田憎し」の感情を植え付けたようです。
 続く版籍奉還では稲田家がごねました。版籍奉還で殿様は華族に、その家来は士族に、そのまた家来は卒族に成ることになったのですが、それでゆくと稲田は士族で、その家来たちは卒族になる。それでは到底生活してゆけないし、戊辰の戦役の際あれだけ官軍に協力したのにというわけです。稲田家は密かに有力公家に懇願して蜂須賀藩からの分藩を策謀しはじめました。
 話がそれますが、明治維新で常々私が不思議に思うのは、よくもまあ版籍奉還廃藩置県のような中央集権に向けての過激な改革がたいした抵抗もなく行なえたなあということです。
 幕藩体制というのは三百諸侯と呼ばれる藩主たちがいてその中で一番力のあった徳川氏が盟主をつとめるというものでした。立法も司法も行政も基本はあくまで藩単位で、幕府は、各藩が徳川にたてつく勢力を持たない様にだけは気を使いましたが、後は諸国間の調整役のようなものでした。
そしてその経済的基盤は藩内の米の収穫でした。それで藩内の経済が立ち回ってゆかなくなると、聡明な藩主たちは藩内の殖産興業に力をいれ、税の増収につとめました。
 領地と殿様は、かように切っても切れない関係にあったと思うのですが、それが領地を全て天子様に返しなさいといわれて、簡単に返してしまったというのが不思議で仕方ありません。
 徳川家に変わって天皇家がトップに着くことなどよりずっと過激な変革と思うのですが。そのへんを理解できる聡明な殿様がほとんどいなかったということでしょうか。
 淡路の稲田家の場合も倒幕の必要性は理解できても、封建制の解体と強力な中央集権国家の建設までは理解できなかったようで、あくまで稲田家も蜂須賀家と同等にということにだけこだわっています。
 最初にキレタのは蜂須賀家の家臣たちでした。稲田家の蜂須賀家からの分藩の策謀があると知りカッときて淡路の稲田の家来たちをを襲いました。大砲まで持ち出しての攻撃だったようで、分藩もくそも翌年廃藩置県で藩そのものが日本から消滅していることを考えると、滑稽としかいいようがありません。
 この「兄弟喧嘩」の知らせに岩倉具視は激怒し蜂須賀藩を取り潰すとまで言ったものだから、ことは一発で収束、その程度のことで収まることなら最初からやるなよといいたくなるような結末でした。
 結果、襲った蜂須賀側は首謀者10人が切腹、20数人が八丈島への島流しとなりました。襲われた稲田側はかねてより望んでいた家臣の士族としての身分は認められたものの、北海道静内郡色丹島への移住開拓を命じられ(これは稲田騒動の前から明治政府により申し付けられていたことです。政府も「仲の悪い兄弟」は離しておくほうがいいと思っていたのでしょう)、主従ともども北海道に移り住むことになりました。
 これで庚午事変(別名稲田騒動)に関する話は終わりにします。
 こういった本家と分家の確執に属するような話は何も阿波徳島藩だけではなく、幕末期、他にもいくつかありました。でありながら徳島藩がこのような見苦しい内輪もめをやらかしたのは、自身たいした見識も持ち合わせていないくせにずうたいだけはでかくて(阿波25万石というのは石高でみると徳川の宗家、御三家を別にして三百諸侯の中でも上から十数番目にある大大名でした)、俺たちは大組織に属するエリ−ト武士だという自尊心だけが大きすぎ、適切な判断が出来なかったせいだと私は考えています。
 今の日本の行き方を考えるうえでの反面教師としてのお手本にもなりそうに思えます。

団長の事件簿「うどんの人」の巻 ―超麺通団2

団長の事件簿「うどんの人」の巻 ―超麺通団2