モラエスと「孤愁 サウダーデ」

 「盆」を過ぎたら、昼間の暑さはまだまだ続くものの、朝夕がすごしやすくなってくるとは昔からいわれてますが、全くその通り、この文を書いている8月16日午前5時の徳島市は、空は雲ひとつない快晴で、心地よい風も適度に窓から入ってきて、じつにすがすがしい朝です。
 でも昼間は暑いだろうな…。
  


 数日前の徳島新聞に数学者の藤原正彦さんの「阿波踊り」に関しての寄稿文が載っていました。
 藤原正彦さんといえば、お父さんは作家の新田次郎さん。
 その新田次郎さんがなくなられたとき書かれていたのが「孤愁 サウダーデ」という長編小説。
 この小説の主人公はヴェンセスラウ・デ・モラエスというポルトガル人です。


 日清戦争後まもないころポルトガル総領事として神戸にやって来たモラエスは、そこで恋仲となったおヨネという女性の病死にともない、彼女の菩提を弔うため、職を辞しておヨネのふるさと徳島に移り住みました。
 以後かれは昭和の初年になくなるまで日本でいう大正時代を徳島で過ごします。
 肩書き付きの移住でなかったこともあり、徳島における彼の生活はけっして優雅なものではありませんでした。どころか、多くの徳島県人から「変人」として見られ、「西洋乞食」とさげすまれ、果ては「西洋のスパイ」呼ばわりまでされていたのです。
(前に書いた「板東俘虜収容所」が徳島にあった時期とモラエスが徳島にいた時期はダブっています。この二つを並行して見比べることで大正期の平均的日本人の外国人に対する意識を解き明かすことが出来るかもわかりません。)
 それでも彼はその著作の中で「ポルトガルの田舎町にひとり暮らす日本人よりかは私の方がましだと思う」とやさしく徳島県人をかばってくれています。


 著作もほとんどポルトガル語でなされているため、長いあいだ彼のことは多くの日本人に知れるということがありませんでした。
 やっと日の目を見始めたのが、研究家花野富蔵さんらの努力によって日本語版全集が集英社から出た昭和40年代といえます。
 私自身がモラエスを知ったのも確か高校時代(昭和40年代半ばです)、佃實夫さんの「わがモラエス伝」を読んでだったかと思う。
 ただ、彼の知名度が「全国区」なものかどうかは、正直今でも疑問に思うところがあります。同じ「日本の地方に暮らした異邦人」でも松江のラフカディオ・ハーンはまごう事なき「全国区」だけれど、モラエスはハーンを知る人の五分の一か十分の一しか知る人がいないのではないかと思っています。
 だから、新田次郎さんがモラエスを主人公にした長編小説を書くと知った時は、新田次郎という中央の著名な作家がモラエスのことに関心をもっていたこと自身にまず驚き、つぎに「これでモラエスもそうとう全国に知れ渡るな」と思ったものでした。
 その作品「孤愁 サウダーデ」執筆途中で新田さんは急死されたのです。
 残された未完の作品は、分量にして新潮社版「新田次郎全集」の1巻を占めるほどなのですが、それでも確かモラエスが日本にやって来るあたりまでしか描かれていません。
 新田さんはこの作品のためにポルトガルまで取材に出かけており、完成のあかつきには相当の大作になったと思われます。それだけにその作品が未完に終わったと知った時は、正直なところ残念でなりませんでした。


 先日の「徳島新聞」の藤原正彦さんの文で、その「孤愁 サウダーデ」を息子の正彦さんが書き継ぐ予定であることを知りました。
 藤原正彦さんのエッセイはよく読むのですが、小説というのは読んだことがありません。ですが両親揃って上質の「もの書き」の血筋なので、彼のエッセイと同じように、きっと面白いものが出来上がると思われます。
 息子さんがその遺志を継いで作品を仕上げようと思うほど、新田次郎さんが「孤愁 サウダーデ」執筆に情熱を注いでいたということを再確認出来たと同時に、藤原正彦さんの作品後半部分の出来上がりを待つという楽しみが一つ増えた記事でした。