新年

 この文章が2005年はじめの文章になりました。
 去年12月は、店の棚の本をほとんど増やすことが出来なかったので、正月三が日は遅れを取り戻すべく60冊の本を登録し、そうこうしてる間にアクセス・カウンタ−の数字が4桁に近づいてきたので気が落ち着かなくなり、ほぼ1時間毎にインタ-ネットを開いて数字を確認する始末。数字が晴れて「1000」に達した5日の夕刻は今年2度目の元旦を迎えたような気分でした。
 元日にしても、アクセス・カウンタ-の数字にしても、単にずっと続いている流れの中の一時点に過ぎないんですけどね。それを受け入れる人の気持ち一つでずいぶん違って感じるものです。
 むかし一休さんが「しょうがつはめいどのたびの一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と歌ったとか。生まれた出発点から死ぬ終着点に向かって1日1日確実にコマを進めているのは間違いのないことで、そう考えると正月なんてなんらおめでたくないことに思えます。
 特に私のように年齢的にはとうに人生の折り返し点を過ぎてしまっている人間は「後何年生きられるのかな」なんてことを考えることも多くなり、余計に歳を取ることにめでたさを感じにくくなってきました。
 私の場合10年ほど前から「新しい歳を迎えてめでたい」とは考えずに「この歳まで無事生き長らえることが出来てありがたい」と考えるようになってきました。
 この世に「生」を賜った動物は必ず死ぬ時が訪れる。他のことは全て自分の意のままになった秦の始皇帝でも「死」だけは克服できなかったわけで、これは仕方ないことです。ただ幸か不幸かその時期ははっきりとは決まっていません。
 「老少不定」(ろうしょうふじょう)_若者が必ずしも年寄りより後で死ぬとは限らない。どんなに若くても病や不慮の事故は襲ってくるわけで、私の同級生や後輩にも、すでに鬼籍に入っている人が何人かいます。とりあえずこの歳になるまで死なずに済んでいることをありがたいと思うようにしています。
 「じゃあ、お前、死なずにその歳まで生きてきて、それでなにがありがたかったのだ?これまでにどれほどのことをなしたのだ?」と問われれば、「ウ〜ン、特に何もしていないなあ。馬齢を重ねてきただけだな。」と答えるしかありません。
 しかしもし5年前に私が死んでいたら、私のふたりの子供は義務教育を終える前に父親をなくしていたわけで、まあ、とりあえずつつがなく子育てすることが出来たというだけでもありがたいことです。
 正月早々、抹香臭い話から入っちゃいましたが、他人事のように読んでるあなた、時間はアッと言う間に過ぎてすぐに同じようなことを考える時がきますから。(それも時間の過ぎ方は年々早くなっていきますよ。)
 とにかく今年の日記はここからスタ−トです。