蜂須賀重喜のこと

 前回に続いて江戸時代の阿波徳島藩のことを書きます。第11代藩主蜂須賀重喜のことです。 蜂須賀のどの殿様が何代目になるかは初代を誰にするかで説が分かれるところです。
 はじめ秀吉は自分のために尽くしてくれた蜂須賀小六正勝に阿波の国を与えるつもりだったようですが、正勝が歳を理由に固辞したため、息子の家政が阿波の領主となりました。関が原の際は、義理から言うと「西」、これからを考えると「東」と板ばさみになり、家政は領地を豊臣秀頼に返して隠居、高野山にこもって戦いには参加しませんでしたが、ちゃっかり息子の至鎮(よししげ)には家康の東軍に付かせています。その功績で蜂須賀至鎮徳川家康から改めて阿波1国を与えられました。
 そんな事情から蜂須賀至鎮をして阿波蜂須賀家の初代と見る人、そのお父さんの家政(隠居後は蓬庵と号す)を初代と見る人、もひとつ前の正勝を蜂須賀一族の中ではじめて大名となり阿波蜂須賀家260年の礎を築いた人ということで初代とみる人がいます。蜂須賀重喜という殿様を第11代と書いたのは蜂須賀家政を初代として11番目という事です。
 蜂須賀家は江戸時代を通して国替えも領地の没収もなく、ずっと阿波・淡路2国の領主であり続けたのですが(淡路島は大阪の役の際の働きが認められて1615年に徳川家から加増されました)、家督相続に関しては代々長男に継がせるということがうまくいかず、比較的早い時期から本当の蜂須賀の血筋は途絶えています。
 第11代藩主蜂須賀重喜という人も実は蜂須賀の連枝ではなく、秋田の佐竹家の分家の子です。それも10代藩主の至央(よしひさ)という人が藩主になってわずか2ヶ月で急死したため慌てて末期養子に立てられた人物で、蜂須賀の殿様になるまで先代や先々代の殿様に会ったこともなければその領地に足を踏み入れたこともない人でした。
 その蜂須賀重喜という殿様が、歴代の蜂須賀の殿様の中で唯一、阿波蜂須賀藩の構造改革に乗り出し、必死に頑張った人だったのです。
 彼が殿様であった宝暦4年(1754年)から明和6年(1769年)のころはすでに貨幣経済が相当発展してきていて、米を中心に組み立てられた経済体制は押しまくられ、多くの藩は借金体質のままもがき苦しんでいた時期です。
 (ちなみに徳川吉宗享保の改革が1716年から1745年の間です。)
 蜂須賀重喜は倹約の奨励、藍の専売制の改革、淡路由良港の建設、職班官禄の新制など次々に改革案を出し強硬に藩政改革を推し進めようとしました。
 しかし、結果からいうと、あらゆることが裏目に出てうまくいかなかったばかりか、うまくいかなかったことを幕府から責められ隠居を申し付けられ、彼が改革のために作り上げた新法はすべて廃止、旧来の家法に戻されてしまいました。
 彼が必死に頑張った改革がうまくいかなかった理由は、いろいろな要因からだろうと思います。
 もともと阿波の藩士の間には、自分たちの新しい殿様のことを「ちっぽけな家の若造」「養子の分際」と小バカにしている風がありました。これは後世に残された記録からもはっきりと窺がえます。また藩士には既得権の侵害もいやだっただろうと思われます。重喜は自分の家臣たちから陰に陽に邪魔をされたようです。この辺はいつの世でも同じことです。
 彼のやり方が強引過ぎて人々の反感をかったということもあるでしょう。平島公方に対する処置などもう少し柔軟に出来なかったかとも思います。
 彼の殿様時代は台風や洪水による不作や飢饉がよくあり、そういう面でツキがなかったのも事実です。自然災害が原因の百姓一揆の責任まで負わされているところがあるようにも思います。
 追い討ちをかける形でこの時期に幕府は阿波藩に薩摩藩のやり残した木曽川揖斐川の治水工事を命令してきました。(薩摩藩はこの治水工事のため、破産寸前まで追い込まれています。薩摩藩のこの塗炭の苦しみを杉本苑子さんは「離愁の岸」という長編小説で描き直木賞を得ました。)せっかく財政危機をなくすべく努力しているというのに、そんな時のこの命令は、おそらく聞いた時は目の前が真っ暗になったろうと思います。
 17歳ぐらいで25万石の太守になり、15年間殿様をやって一所懸命阿波という国を好くしようと頑張り、だのに家臣は思うように動いてくれず、全てが無駄骨に終わって隠居を命じられ、残り30年あまり、つまり人生の半分を失意の中に暮らすのもつらかったのではないか。
 史料の中ではあまりよく書かれていない殿様だけど気にかかる殿様なので、先回の稲田騒動で蜂須賀のことを取り上げた機会についでに蜂須賀重喜の事を書きました。
 なお、吉川英治さんがこの殿様のことを知り、それをヒントに、幕府転覆を企てる阿波藩に隠密を送り込むという「鳴門秘帖」という伝奇小説を書きました。なかなか面白い小説でしたが、史実とはずいぶん違うとだけはいっておきます。