林義雄 と「八月の濡れた砂」

TBSに林義雄さんというアナウンサ−がいました。過去形で書かなければいけないのは、あと一ヶ月あまりで59歳になるという2年前の7月に、癌で亡くなられたからです。声がすっごくきれいなアナウンサーでした。
私が高校生から大学生だったころ、彼はTBSラジオの「パック・イン・ミュ−ジック」という深夜放送でパ―ソナリティをしていて、それなりに人気のある人でした。
上京して間もないころ、ほんの半年ほどの短い期間でしたが、TBSの彼のもとで視聴者に出すハガキの宛名書きをしたり、ほかにも人手のいることを手伝ったりしていたことがあります。私だけというのではなく、10人ぐらい、比較的時間の自由になる若者が集まってきていました。まあファンクラブの有志会みたいなもんです。
そういうことになったいきさつはすっかり忘れましたが、当時まだ二十歳前の若造だった私には見るもの聞くもの全てが珍しく、楽しい思い出になっています。
林さんと同期のTBSアナウンサ-には久米宏さんがいました。「パック・イン・ミュ−ジック」の仕事もたしか久米さんが長患いの病気にかかって、同期の林さんがピンチヒッタ−として受け持ったことから始まってたと思う。久米さんはTBSのアナウンス室でたまに見かけましたが、この二人は対照的に見えました。小柄な林さんに対して大柄な久米さん。アナウンサ-然とした聞き取りやすいしゃべり方をする林さんに対して早口でしゃべる久米さん。見た目の性格も林さんはどことなく陰の感じが漂っていましたが、久米さんのほうは陽の感じでした。
久米さんはこの後TBSを退社してフリ−となりましたが、林さんはTBSに残って、亡くなる前には若手の指導にも当たられていたらしい。与えられた原稿をキッチリ聴く人に伝えるアナウンサ−の技術は林さんのほうが久米さんより数段上だったと思うので、自分に合った道を心得ていたということでしょう。
当時の林さんは、その前年に封切られた日活の「八月の濡れた砂」(藤田敏八監督)という映画の上映会に力を入れていました。この映画は、経営難に陥っていた日活が、ここを境に一般映画からロマンポルノに切り替えるという端境に作られた、日活にとっては一般映画として最後のプログラムピクチャ−です。
映画史に残る大傑作というようなものではなかったものの、若者のやり場のないエネルギ−の鬱屈を描いた秀作で、藤田敏八監督の代表作といっても過言ではないと思う。
そんな映画が「日活がポルノ映画制作へ」という社会的話題のドサクサの中で封切られ、正当に評価されずに終わってしまっていたことに林さんは不満を持っていました。
担当する深夜放送の中でも何度も林さんはこの映画の良さを訴えていましたし、フィルムを借りなければいけない日活との交渉にも力が入っていました。上映会にはゲストに原田芳雄さんにも来てもらい(直前まで麻雀をしていたとかでジ−ンズに下駄履き姿でやってきたことを鮮明に覚えています)、またこの映画の同名の主題歌を歌っていた石川セリさんにも来てもらいました。(彼女はこの歌がソロ・デビュ−だったはずで、まだ若かったせいかママ同伴で来てました。)
こんにち「八月の濡れた砂」という映画が正当な評価を得ているに、林義雄さんの努力も忘れてはならないと思ってます。
話が後先になりましたが、林さんは日本映画をこよなく愛していました。
鶴田浩二さんの「博奕打ち・総長賭博」(山下耕作監督1968年東映)とか小沢昭一さんの「競輪上人行上記」(西村昭五郎監督1963年日活)などのプログラムピクチャ−の傑作を教えてくれたのも彼でした。(「総長賭博」のほうは作家の三島由紀夫さんも絶賛していたことを後で知りました。)
また彼は競輪も好きでした。競輪は選手の出身地や先輩後輩といった要素を頭に入れて推理を働かせなければいけないところが面白いのだといっていましたが、こちらは私は今まで一度も足を踏み入れたことのない世界なのでよくわかりません。
林さんは新しい才能をかぎ分ける能力にも長けていたと思ってます。
たとえばタモリ。まだ「四ヶ国語麻雀」なんて芸をしていた初期のころから(彼がまだ赤塚不二夫さんの家に居候みたいなことをしていたころではないかしら)、林さんは彼を「密室の芸人」と名づけて番組の中で絶賛していました。私はラジオでそれを聞きながら、それほどのことはあるまい、一発屋で終わるだろうと思っていたのですが、林さんのほうが正しかった。
タモリで思い出しました。全く話が横道にそれるんだけど、植草甚一さんが25年前に亡くなった時に、植草さんの膨大なジャズのレコ−ドのコレクションをタモリが一括して引き取ったという話を耳にしたことがある。タモリもジャズに縁のある人だとは知っていたので不思議には思わなかったのだけれど、あのコレクションは今どうなっているのだろうか?)
もうひとり例を挙げると沢木耕太郎さん。私が彼の名をはじめて知ったのも林さんの番組からでした。1973〜4年頃のことで、もちろん沢木耕太郎の名はまだ無名でした。彼がパック・パッカ−としてユ−ラシア大陸縦断の旅から帰ったばかりの時期に、深夜放送に彼をゲストに招いて旅の話をしてもらっていました。これも当時私は「こんな無名の若者の貧乏旅行の話を聞いて何が面白いのだろう」と思っていたのですが、いうまでもなく、この旅が、後に「深夜特急」という作品に実を結ぶこととなる旅です。(旅から帰った直後のことなので、「深夜特急」の本が手元にあればいつのことかもっと詳しく特定できるのですが…)
おそらくこの時期は沢木さんはすでに数冊の本は出していたのでしょう。しかし私はそのとき一冊も彼の作品を読んでなくってその名前を知りませんでした。一般的にもそうだったと思う。
私が彼の名を強烈に頭の中に刻み込んだのは1979年に彼が大宅壮一ノンフィクション賞を取って、私がその受賞作「テロルの決算」を読んだときです。(当時この作家の視点のみずみずしさに感動し、「テロルの決算」の構成をまねて伊藤博文と彼をハルビン駅で暗殺した安重根の話を小説化したら面白いものが出来るのではないかと思い、二人の資料を買いあさったりしたほどです。結局は、私に沢木さんほどの文才がないことに気づき、小説を書くことはあっさり諦めましたが。)
「テロルの決算」で沢木さんの名が世間に知られたのは、沢木さんが林義雄さんの深夜放送に生出演して旅の思い出を熱く語っていた時期から数年先のことですし、この旅のことが「深夜特急」という題の作品にまとめ上げられるのはこのときから十数年後のことです。
かように林義雄さんはいいものを見つける眼を持った人でした。
遅まきながらご冥福をお祈りいたします。

八月の濡れた砂 [DVD]

八月の濡れた砂 [DVD]

テロルの決算 (文春文庫)

テロルの決算 (文春文庫)

深夜特急〈第一便〉黄金宮殿

深夜特急〈第一便〉黄金宮殿