池袋文芸坐

今日は日記を休むつもりだったけど、ネット・サ-フィンで感動的な写真に出くわしたので、思わずキ−ボ−ドに指が載っちゃいました。
タイトルにあるとおり「池袋文芸坐」の旧館の写真です。
見つけたのは神野哲也(かみのてつや)さんの個人のホ-ム・ペ-ジ「KAMITETSU」http://www.asahi-net.or.jp/~hg8t-kmn/index.htm。ここを開いて「PHOT」のボタンをクリックしたら「デジカメ写真館」というペ-ジが開き、その中に「思い出の映画館『文芸坐』…そして復活」という項目があるのでそこを再びクリック。これで文芸坐の写真のサムネイルが出てきます。
(ちょっと遠回りですが、神野さんが「リンクは自由だけど、するならトップ・ペ-ジにお願いします」と書かれていますので。)
池袋文芸坐――それは、京橋のフィルム・センタ−、銀座並木座などと並んで、私にとっては日本映画の秀作を数え切れないくらい見せてもらった「聖地」なんです。
昼間は、文芸坐は外国映画の名画座でした。(貸しビデオ屋さんやテレビの映画専門チャンネルの普及で「名画座」なんて言葉も死語になったんだろうか?)日本映画はその横に入り口のあった「文芸地下」のほうでやってました。(神野さんのペ-ジには「文芸坐2」とあるけど、私たちの時代は「文芸地下」といってました。当時から「文芸坐2」が正式名称だったのか、それとも途中から改名したのか?)
しかし文芸坐の思い出は、昼間の映画上映ではなく、週末のオ―ルナイト上映にあります。私が上京した当時、ちょうどうまい具合に文芸坐では日活アクション映画の系譜を戦後の映画制作再開の時期からはじめて系統だてて土曜日のオ―ルナイトで上映していました。一夜で5本前後上映されたので、年間250本ぐらいかな?日活編なんか毎週のように通ってほとんど見ましたもんね。(ただし正直、朝方になって上映される最後の映画のときは眠さに勝てず、よく座席で寝てました。)
初期の「警察日記」あたりから裕次郎、圭一郎、旭なんかを経て「野良猫ロック」まで、日活映画は徳島ではあまり見てなかったので、その流れは文芸坐で学んだようなものです。(東宝大映東映の映画は少し観てました。)
東京を離れて20年あまり経つと(文芸座のオ−ルナイトに通っていたころからは30年近い)、当時の記憶を呼び起こす写真に出くわすと思わずなつかしさがこみあげてきます。(歳ですネ。)
そうそう、こんな建物でこんな女神のレリ−フが入り口の上についていたっけ。そういや、こんな藁半紙に印刷された文芸坐ニュ-スを貰っていたよ。小屋主は、そうだった、三浦さんだ。丸顔で穏やかな感じの人だった。ル・ピリエ?地下にこんな小劇場はなかったよ。たぶん映画の客の入りがあまりにも悪くなってきたので、借り手があるときは小劇場として貸していたんだろうな。渋谷のジァンジァンみたいなものか。ジァンジァンよりもちろん広いけど。二階席もあったし。待てよ、地下の二階席は本当はなんて呼ぶのかな?しかし奇遇だな、当時、渡辺武信さんていう建築家http://users.arcmedia.co.jp/twarchで詩人でもある映画評論家の人が、文芸坐の日活映画特集と同時進行のような形でキネマ旬報に日活アクション映画の歴史を連載していて(「日活アクションの華麗な世界」として刊行されてます)、その確認のためかときおり文芸坐のオ-ルナイトにも来ていた。建築家としても後に中公新書から3冊ほど本を出していて、なかなか面白い本だったけど(詩人としての本は未読)、最近どうしてるのかな、と思っていた矢先4冊目の中公新書が出た。やっぱ、健在だったね、と思っていたら今度は文芸坐。休館した話はなんかで聞いた記憶があるけど、3年半かかって新築オ-プンしてたんだ。
別れて何十年も会ってない友、それも何年か前に大病を患ったと風の噂に聞いていた友。そんな友が、今も元気で頑張ってるとふとした拍子に知ったときの嬉しさ。
新文芸坐」さんhttp://www.shin-bungeiza.com/にはこれからも何とか頑張ってもらって名画座の灯をともし続けていってもらいたい。
オ−ルナイト上映明けの日曜の早朝、池袋駅から国電(現JR)山手線に乗ると、当時は、近郊のゴルフ場へ行くおじさんゴルファ―がゴルフ・バッグを前に立てて座席に座っている光景がよく見受けられました。今もそうなんだろうか?
ま、40歳以下の人、地方在住の人、日本映画に興味のない人などには共感してもらえないカルトな話題なので、そういう人には、この日記はなかったことにしておいて下さい。

日活アクションの華麗な世界―1954-1971

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住まい方の実践―ある建築家の仕事と暮らし (中公新書)

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