黒澤明「羅生門」

黒澤明監督の作品に「羅生門」というのがあります。
芥川龍之介の短編小説を原作にしたものです。ただし、ややこしいのは物語の骨格の元になっているのは芥川の短編小説「羅生門」ではなく「藪の中」という短編だということです。「羅生門」のほうは、映画の始まりと終わりに平安朝の時代の雰囲気を表す形で朽ち果てた羅生門が舞台として登場するだけです。(この羅生門のオ−プン・セットは実にすばらしいセットでした。羅生門のシ-ンを観ただけでこの物語の時代がいかに荒れ果てた時代であったかがわかるようになっています。美術担当の松山崇さんの渾身の作です。)
原作小説の「藪の中」は、一つの強姦と殺人(?)事件での検非違使(今の裁判官)の尋問に、事件当事者の山賊、犯された女、その女の殺された夫(本人は死んでいるので霊の乗り移った巫女が証言を代行)がそれぞれ真相を話すのだけど、どれもこれも話が食い違っていて本当の事件の姿が見えてこないというもの。「藪の中」という言葉は現在、芥川のこの作品から離れて一人歩きをしています。
四百字詰め原稿用紙にして二十数枚の短いものです。アンブロ−ズ・ビアスの”Moonlight Road”(「月明かりの道」)のパクリだとの説もありますが(私は読んでないのでなんともいえません)、とにかく芥川龍之介はこの小説で「人間なんて、しょせんは客観的に真実を見極めることなど出来ない存在さ」と訴えてます。
映画のほうはこの小説を土台にして黒澤明橋本忍の二人が脚本を書いています。橋本忍さんにとってはこの作品が脚本家としてのデビュ―作となりました。橋本さんの書いた脚本が黒澤監督の目にとまり、これはいけそうだけど少し短すぎるからということで、橋本さんと黒澤さんが合流して共同で決定稿を書き上げたそうです。
映画では、原作の当事者三人の話に加えて、たまたま事件を目撃してしまったキコリの目撃談が加わりました。そして事件の話を挟むかたちで、最初と最後に、今にも崩れ落ちそうな羅生門で雨宿りをしながら事件の話をするキコリと遊行僧と下人のエピソ−ドも加わりました。
実は、この原作にはない羅生門での最後のエピソ-ドこそ、原作の芥川の小説と、それを基にした黒澤明の映画とを大きく違うものにした要因でした。
事件の話をし終わって、キコリと遊行僧と下人の三人が「人間は、なんて信用できない生き物なんだ」と失望している時に、門の隅から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。探してみると生活苦から親が捨てていったと思われる捨て子がいました。下人は「どうせ死んでしまうんだから」と赤ん坊がまとっていた衣類を失敬して去っていきます。この辺は芥川の「羅生門」の雰囲気です。残されたキコリと遊行僧のうち、キコリが赤ん坊を抱いて、いいます。
「うちには六人の子供がいる。六人育てるのも、七人育てるのも同じようなもんだ。」と。
赤ん坊を抱き抱えて家路に着くキコリの姿で映画は終わります。
芥川龍之介は「人間の言う真実や正義なんて信用できやしない」とシニカルに批判するにとどまりました。
映画は「人間はたしかに客観的に物事を見ることすらできない自分中心のつまらない生き物かもしれないが、それでも自分は人間を信じたい。」と締めくくりました。
「失望」と「望み」。このアンビバレンツな二つの主題を作品に含ませたことで、映画は原作をはるかに凌駕したと私は思っています。
黒澤明橋本忍。この二人のもつ人間に対する観察眼と愛情とからして、「それでも人間というものを信じたい。」というメッセ−ジを入れずに居れなかったのであろうことは、これ以降二人が世に送り出し続けた数々の作品からも想像できます。
この映画は他にも、宮川一夫さんのすばらしいカメラワ―ク(始まりと終わりの羅生門のシ-ンの暗い感じ、取調べのシ-ンの白砂の明るい感じ、強姦シ-ンの木漏れ日でチカチカする感じ、というそれぞれのシチュエ−ションでの違った雰囲気の使い分け)、音楽の早坂文雄さんの、強姦シ-ンでのボレロに材をとった軽快で力強い音楽など「さすがに映画とは総合芸術だな」と思わせるいくつものすばらしいものを持っていますが、やはりそれらをまとめ上げた黒澤明という監督の力量が一番の成功の要因です。
敗戦の中からいち早く映画の進むべき道を世界に指し示したイタリア映画界のお膝元、ベネチアの映画祭で絶賛を浴びたのもうなずけます。
以上、私の黒澤明賛歌第一弾でした。

羅生門 デラックス版 [DVD]

羅生門 デラックス版 [DVD]