アラビアン・ナイト

小学校のころの私は、他の子より長いあいだ外国=アメリカと思い込んでいた記憶があります。世の中には日本とアメリカしかないように考えていたわけです。
その反動か、世界にはいろいろな国があるということを知ってからは、あらゆることに新鮮な好奇心が湧いてきて、逆に他の子供よりもマセはじめたように思います。
私が中学2年生のころ、集英社が「バ-トン版千夜一夜物語」(大宅壮一訳)を出版しました。完訳版で当初十巻予定でしたが収まりきらずに十二巻になり、最後に詩歌だけを収めた別巻を出して全十三巻になったものです。装丁は箱入り豪華版とペ−パ−バック版の二種類が出されました。御多分に漏れず、それまで千夜一夜物語(というよりアラビアンナイト)というとアリババと四十人の盗賊とかアラジンと魔法のランプとかのおとぎ話集だと思い込んでいた私は、この物語がずいぶんエロチックな内容を含んだ中東世界の民話の集大成なのだと知って、すぐにこの本にのめり込んでしまいました。しかもこの本には一巻に数ペ-ジの牧野邦夫という画家のこれまたエロチックなカラ-の挿絵がついていました。今見るとどうということもないものですが、当時の私には、十二分に刺激的なものでした。
私が買っていたのは安いペ-パ-バックのほうでしたが、当時の集英社は、この本とそっくりの装丁の本を「コバルト・ブックス」と称して石原慎太郎さんや石坂洋次郎さんのものなど、ずいぶんの点数出していましたので、買う時に恥ずかしかった記憶はありません。
ただ、一度この本を学校に持っていったことがあるのです。クラスの悪友がそれを見つけて「僕にも読ませてくれ」というので貸してやったところ、こともあろうに授業中にこっそり読んでいて先生に見つかり、私と悪友二人して職員室に呼び出され、私のほうは「こんな本を学校に持ってくるなよ」と諭されました。トンだとばっちりですが、このときは少しだけ恥ずかしかった。
今年は千夜一夜物語がヨ-ロッパに紹介されて300周年なんだそうで、大阪の国立民族博物館では「アラビアンナイト大博覧会」なる催しが開かれているし、ちくま文庫でもバ-トン版の千夜一夜物語が出版されているし、(こちらは大場正史さんの訳のもの。後で聞いたところでは私の読んだ千夜一夜物語の訳者はほんとうは大宅壮一ではなく、大宅壮一さんは名前を貸しているだけだという話です)岩波文庫もマルドリュス版「千一夜物語」を再版するらしい。
バ-トン版とマルドリュス版、それぞれ英語版からとフランス語版からの重訳とはいえ、その日本語完訳が両方ともにあるだけでもすごいと思うのに、日本にはそれだけではなく、アラビア語からの直訳の完訳本まで存在するのだから、驚き入る話です。いったい世界にアラビア語原典直訳のアラビアンナイトの完訳本を持っている国がどれくらいあるか。おそらく数えるくらいしかないと思います。その功績はもちろん訳に当たられた前嶋信次さんと、前嶋さん亡き後、残りの部分を訳し終えられた池田修さんに帰すものですが、正直、日本人として鼻が高くなることです。
余談ですが、子供のころ聞かされた「アリババ」と「アラジン」の話は、アラビア語の原典には載っていないんだそうです。最初から存在していない話をヨ−ロッパ人がでっち上げたのか、それとも最初にヨ-ロッパに紹介した時には存在していた話が何らかの事情でばらばらになってどこかに消えてしまったのか。東洋学者たちが一生懸命その原本を探しているのだけれど今はまだ見つかっていないらしい。
だものだから、原典直訳の「アラビアンナイト」では最終巻に番外編として、ヨ−ロッパから逆輸入されて現在アラブ諸国で流布されている「アリババ」の話と「アラジン」の話を載せてあります。
アラビアン・ナイト (4) (東洋文庫 (93))
アラビアンナイト博物館
バートン版 千夜一夜物語 第1巻 シャーラザットの初夜 (ちくま文庫)
アラビアン・ナイトの世界 (平凡社ライブラリー)
千夜一夜物語と中東文化―前嶋信次著作選〈1〉 (東洋文庫)