福田みどりさんの本

司馬さんが亡くなった時は、他の司馬さんファンと同じで呆然となりました。「ああ、これで日本の良質の知性を一つ失った」と嘆いたものです。元気でさえいてくれたら、「街道をゆく」だけでもあと十数作は残してもらえたのに、と叶わぬことを思いました。
司馬さんが「街道をゆく」で次に海外に取材にゆくとしたらハンガリ-を訪れたいといっていたと聞いて、そのもう一つ次はフィンランドに行くつもりではなかったろうかと想像したりもしました。
司馬さんは大文明の周辺にいて大文明の影響を強烈に受けながら健気にその生活を送っている民族に大きな共感をもたれていて、これまで書かれた海外紀行も、中国とアメリカを除いて、全てその線上にあります。
日本もそうですが、韓国、モンゴル、ベトナム、台湾、これらの国々は中国文明を大きく受け入れたりときには反発したりしてその歴史を作ってきた国々です。
バスク人はスペインとフランスの間のピレネ-山地に暮らし、オランダはフランスとドイツに挟まれ、アイルランドはノルマン征服でウェ-ルズ、スコットランドと共にブリテン島の中原を追われたケルトの末裔です。
中国とアメリカは文明の原理を確認するための旅だったと認識しています。
そして、ハンガリ-とフィンランドはヨ-ロッパでただ二つ、4〜6世紀の民族大移動の際の騎馬民族の末裔の国といわれています。当然司馬さんはこの二つの国のことを書き残したかったと思われるし、それがなされる前に帰らぬ人となってしまったことが悔やまれてしかたありません。
しかし司馬さんが亡くなられてから、悲しみの唯一の救いとなったのは、生きていた時には霧にかすんだように見えなかった司馬遼太郎の人間としての姿が逆に見えてきたことでした。
司馬さんは自身の作品の中で自分を語ることの少ない人でしたから、その著作から心やさしい人とはわかっていても、それ以外どんな人かがよくわかりませんでした。
それが、司馬さんが亡くなられたあと、追悼のかたちで、生前司馬さんと親しくされていた人たちが司馬さんの日常を語ってくれるようになり、また、それまで全てを聞くことなど到底叶わなかった講演の記録も系統立てて出版され、司馬さんの書いた手紙まで許される限りで公開されました。
常々司馬さんは、「歴史小説を書くときは主人公の癖や姿や日常の行動を調べられる限り調べ上げて自分が主人公の親しい友人のようにならなければ書き始められないんだ」と語っていましたが、同じ意味で、司馬さんがなくなって逆にはじめて司馬遼太郎という人がわれわれ司馬ファンの前にくっきりと姿を見せてくれ始めたように思います。
そんな司馬さんの日常を伝える本の極め付きが、今回出版された、夫人である福田みどりさんの「司馬さんは夢の中」です。
みどり夫人はこれまで「司馬さんのことを語るのはつらい」といって、断片的なものはともかくまとまった著作は出版せずにきました。そのみどり夫人がやっと本を出したというのだから司馬ファンの私が飛びつかないわけがない。それもこれまで産経新聞に月一回連載していたことも知らずにいたのだからなおさらです。慌てて書店へ飛んでいきましたよ。
一読、「ああ、やっぱりね」と、司馬さんが亡くなってからあと発表されたいろいろな人の文章から組み立ててきた、我が司馬遼太郎像に大きな狂いがなかったことを裏打ちする内容に満足しました。
書かれているエピソ-ドははじめて聞くものが多かったですが、それは私の組み立てた司馬さんならいかにもやりそうな行動ばかりでした。
司馬さんは決して世の中や人物に不満など持たない大人(たいじん)などでなく、むしろ不満は山と持っていました。しかし決して人前で感情的にそれをぶつけるような事はしませんでした。
その不満を聞かせることの出来た唯一の人がみどり夫人だったわけです。
そのみどり夫人の文章はやはり新聞社の文化部出身の人だけあってハキハキと明快です。
司馬さんと夫人の共通点はすっごい偏食なところ。逆に二人が健啖家ならマンガ「美味しんぼ」の山岡・栗田夫妻に似てくるのに_というのは冗談ですが、もし司馬さんの業績を全く知らない人がこの本を読めばそんなことを思うかもしれません。(もう一つ、みどり夫人の家事炊事まるでだめということも、隠しておく必要がありますが。)
そんな冗談も言えるほど、この本は楽しいものに仕上がっていて、ぜひとも第二弾、第三弾が出版されますようにと願いつつこの文の終わりとします。
私は未読ですが以下の2冊もこの秋に出ていますので紹介しておきます。

司馬遼太郎の置き手紙―幕末維新史の真相

司馬遼太郎の置き手紙―幕末維新史の真相

司馬遼太郎「日本国」への箴言 (日本というもの)

司馬遼太郎「日本国」への箴言 (日本というもの)