韓国のドラマ界②

韓国のメロドラマのスト−リ−展開の中でよく使われるパタ-ンがあります。
といっても、私が自分で考察したことではありません。告白しますと、「韓国”泣ける”ドラマ70のそ〜なんだ!」という本からのパクリですが。
この本によりますと、韓国ドラマでは愛する主人公たちには次々と障害が待ち構えていて、そのパタ-ンは、

  1. 主人公が孤児。あるいは、片親しかいないという設定。家柄が結婚の大きな決め手になる韓国ではこれは大きな障害となる。(日本も昔はそうでした。)
  2. 意地悪なライバルの存在。恋敵だったり、仕事上のライバルだったりする。
  3. 数々の誤解。
  4. 交通事故。
  5. 難病発覚。
  6. 出生の秘密。
  7. 海外留学。

となる。フム、「冬のソナタ」など全条件が備わってますな。他のドラマでも、当たったドラマには、上記の条件のうち七、八割が織り込まれているそうです。
実は、これらの障害を設けて見るものを引っ張っていくメロドラマは、昔は日本にも数多くありました。(交通事故と海外留学は、昔は、時代状況の違いであまり無かったけど)
松竹大船がもっとも得意としたジャンルで、戦前の「愛染かつら」はその代表といっていいかもしれない。
戦後間もなくのNHKラジオの菊田一夫作「君の名は」も、同じく、愛する二人がこれでもかこれでもかと襲い掛かる障害やすれ違いを乗り越える話でした。(これも後に松竹大船で映画化されました)
恋愛ものではないけれど、複雑な家庭の事情を設定して母子の愛で泣かせる映画は、これも戦後すぐの大映が得意としていました。三益愛子さんなど、題名に「母」のつく「母もの映画」にいったい何本出演したことやら。
これらの作品は、半世紀から前のものですが、筋運びはちゃんとシナリオの定石に沿っていて、大道具・小道具も適度に配され、今の韓国ドラマよりすぐれていると思えるものも数多くあります。現に「愛染かつら」や「君の名は」は、公開当時、今の「冬ソナ」ブ-ム以上の空前のブ-ムを巻き起こしているのです。
それが徐々にしぼんでいったのは、こういった作品がたくさん作られているうちに、やはり、観客が飽きてきて、だんだんヒットしなくなってきたことが一番大きい原因でしょう。
それと双璧をなす原因は、これは単にメロドラマのジャンルに限ったことでなく、娯楽の多様化で映画館へ足を運ぶ人口が徐々に減ってきたことだろうと思います。
ただ、それだけではなくて、戦後、日本にはいってきた海外の映画が、日本映画の作り手と観客の双方に影響を与え、少しづつとはいえ、こういうメロドラマに物足りなさを感じる日本人が増えていき、日本映画が多様化していったことも、少しは原因のうちに入ると思います。
戦後、映画の世界で、大きな変革の運動はイタリアに起こりました。ネオ・リアリズモとかイタリアン・リアリズムといわれるのがそれです。
第二次世界大戦の敗戦国イタリアは、日本と同じように戦争であらゆるものを失い、戦後、裸一貫から再出発しました。イタリア映画界でもそれは同じだったのですが、ただ、彼らはたくましかった。資金、資材、人材の不足を逆手に取った映画作りにチャレンジしたのです。今までのような立派なセットが作れないとなると、撮影のほとんどをロケで行ないました。役者が足りないとなると、素人を起用しました。そして、劇映画を、記録映画の手法で作っていったのです。
シナリオの構成も、これまでの劇映画とずいぶん違っていました。
起、承、転、結という筋運びの概念を捨てて、淡々とエピソ−ドを積み重ねていく形式をとりました。「団子の串刺し」などと呼ばれるシナリオ形式です。
イタリアン・リアリズムの作品群は世界中で絶賛され、特にそのシナリオ形式は、それ以降世界中の映画つくりの場に深く浸透してゆきました。
私たちが生活している現実の世界はいつもいつも劇的に推移しているわけではありません。むしろ単調に流れていっています。そんな自分たちの世界を正直に描きだすには、イタリアン・リアリズムの形式が適している。
一時的にせよ現実を忘れさせる「娯楽映画」の世界では従来の起承転結シナリオが使われ、現実をみつめる「芸術映画」の世界では団子の串刺しシナリオが使われる、そんな構図がこれ以降出来上がりました。
戦後映画史の中で、イタリアン・リアリズムの出現ほどのエポック・メイキングな出来事は他に無かったように思います。
この後十数年して、フランスにヌ−ベル・バ−グというのが起こります。映画大好き青年たちが映画図書館で勉強をつんで起こした運動ですが、これは、まとまってひとつの方向を目指した運動というよりも、映画に対する考えも映画つくりの手法も違う連中が、「フランス映画を変革しよう」というただ一点で結ばれていたものです。ジャン・リュック・ゴダ−ル監督の、政治的メッセ−ジをとり売れた記録映画的諸作品は、当時センセ−ションを呼びましたが、今にして思えばその映画自身はたいしたものとは思わない。(むしろ、おとなしかったフランソワ・トリュフォ−監督の方がその後秀作を次々と発表していきました。)こういう映画もありなのだということを教えてくれる運動だったと思います。
日本では大島渚篠田正浩といった監督群を生み出すきっかけになりました。
そのまた十年後にアメリカで「イ−ジ−・ライダ−」という映画をきっかけにしてアメリカン・ニュ−・シネマというのが登場してきます。これは単に、アメリカ映画もやっとここまでこられたかと思わせてくれただけのことですが。
例えば日本などは、そういった変革の波が押し寄せてくると、そのつど影響を受けて、少しづつ新しいタイプの映画(テレビが1960年代に入って勢いよく発展し始めるとテレビドラマも)が増えていきました。六十年がかりで今の状態が出来ていったわけです。
お隣の韓国はどうか。
戦後四十年、軍政時代の韓国では映画やテレビのドラマ作りはいろいろと窮屈だったと思います。
その後の二十年も実は色々の規制が国からかけられています。自国で作るほうではなく外国からの流入に対してです。日本のものは数年前まで映画テレビだけでなくあらゆる文化が輸入禁止だったことは多くの人が知っているとおりです。他の外国の作品も、ひとつの映画館が一年間に上映する作品のうち何割は韓国映画でないとダメなどと決められると、公開できる作品はどうしても限られてくる。
こうした規制が、長い目でみて果たして韓国映画界のプラスになるかどうか。日本で、農家を守るためにと行なってきた海外からの輸入規制、他産業からの農業への参入規制、助成金のばら撒きといった保護が逆に農家を弱体化させてしまったのと同じことが、韓国のドラマ作りの世界でも起きやしないかと思ってしまうわけです。
作っている側に対する心配ではありません。韓国の人は勉強熱心なので、輸入規制されていても、ビデオやDVDを取り寄せたり外国へ行ってでも、吸収すべきものは吸収する。
問題は観る大衆のほうです。
まだ続きます。