モラエスと「孤愁 サウダーデ」

 「盆」を過ぎたら、昼間の暑さはまだまだ続くものの、朝夕がすごしやすくなってくるとは昔からいわれてますが、全くその通り、この文を書いている8月16日午前5時の徳島市は、空は雲ひとつない快晴で、心地よい風も適度に窓から入ってきて、じつにすがすがしい朝です。
 でも昼間は暑いだろうな…。
  


 数日前の徳島新聞に数学者の藤原正彦さんの「阿波踊り」に関しての寄稿文が載っていました。
 藤原正彦さんといえば、お父さんは作家の新田次郎さん。
 その新田次郎さんがなくなられたとき書かれていたのが「孤愁 サウダーデ」という長編小説。
 この小説の主人公はヴェンセスラウ・デ・モラエスというポルトガル人です。


 日清戦争後まもないころポルトガル総領事として神戸にやって来たモラエスは、そこで恋仲となったおヨネという女性の病死にともない、彼女の菩提を弔うため、職を辞しておヨネのふるさと徳島に移り住みました。
 以後かれは昭和の初年になくなるまで日本でいう大正時代を徳島で過ごします。
 肩書き付きの移住でなかったこともあり、徳島における彼の生活はけっして優雅なものではありませんでした。どころか、多くの徳島県人から「変人」として見られ、「西洋乞食」とさげすまれ、果ては「西洋のスパイ」呼ばわりまでされていたのです。
(前に書いた「板東俘虜収容所」が徳島にあった時期とモラエスが徳島にいた時期はダブっています。この二つを並行して見比べることで大正期の平均的日本人の外国人に対する意識を解き明かすことが出来るかもわかりません。)
 それでも彼はその著作の中で「ポルトガルの田舎町にひとり暮らす日本人よりかは私の方がましだと思う」とやさしく徳島県人をかばってくれています。


 著作もほとんどポルトガル語でなされているため、長いあいだ彼のことは多くの日本人に知れるということがありませんでした。
 やっと日の目を見始めたのが、研究家花野富蔵さんらの努力によって日本語版全集が集英社から出た昭和40年代といえます。
 私自身がモラエスを知ったのも確か高校時代(昭和40年代半ばです)、佃實夫さんの「わがモラエス伝」を読んでだったかと思う。
 ただ、彼の知名度が「全国区」なものかどうかは、正直今でも疑問に思うところがあります。同じ「日本の地方に暮らした異邦人」でも松江のラフカディオ・ハーンはまごう事なき「全国区」だけれど、モラエスはハーンを知る人の五分の一か十分の一しか知る人がいないのではないかと思っています。
 だから、新田次郎さんがモラエスを主人公にした長編小説を書くと知った時は、新田次郎という中央の著名な作家がモラエスのことに関心をもっていたこと自身にまず驚き、つぎに「これでモラエスもそうとう全国に知れ渡るな」と思ったものでした。
 その作品「孤愁 サウダーデ」執筆途中で新田さんは急死されたのです。
 残された未完の作品は、分量にして新潮社版「新田次郎全集」の1巻を占めるほどなのですが、それでも確かモラエスが日本にやって来るあたりまでしか描かれていません。
 新田さんはこの作品のためにポルトガルまで取材に出かけており、完成のあかつきには相当の大作になったと思われます。それだけにその作品が未完に終わったと知った時は、正直なところ残念でなりませんでした。


 先日の「徳島新聞」の藤原正彦さんの文で、その「孤愁 サウダーデ」を息子の正彦さんが書き継ぐ予定であることを知りました。
 藤原正彦さんのエッセイはよく読むのですが、小説というのは読んだことがありません。ですが両親揃って上質の「もの書き」の血筋なので、彼のエッセイと同じように、きっと面白いものが出来上がると思われます。
 息子さんがその遺志を継いで作品を仕上げようと思うほど、新田次郎さんが「孤愁 サウダーデ」執筆に情熱を注いでいたということを再確認出来たと同時に、藤原正彦さんの作品後半部分の出来上がりを待つという楽しみが一つ増えた記事でした。

杉浦日向子さん死去

 今朝一番の驚き。
 杉浦日向子さんが亡くなったこと。
 病気だったことも知りませんでした。
 下咽頭ガン、46歳。若すぎます。美人とは思わなかったけれど(若い頃の写真には超美人に写っているものも多々ありましたが)、すごくかわいらしい女性としてみてました。
 彼女はほんの一時期、荒俣宏さんと結婚されてたはずです。
 荒俣さんは、ずいぶん長い期間、平凡社の資料室にこもって博物学関連の調べ事をしていたことがあるような「超オタク」です。
 今でこそゴールデンタイムにテレビのコメンテーターとして出演したりして、ちょっとメジャーですが、十数年前まで、少なくとも「帝都物語」原作者として名を売るまではほとんど無名で、知っている人にも「変人奇人」の人種と認識されていました。
 杉浦さんとそんな彼との仲を取り持つ人がいたんでしょう。
 さばさばした男性的性格(私の想像)の杉浦日向子さんと、一つことに没頭するとわれを忘れる(私の想像)荒俣宏さん。性格は双方ともにすごくいいと思うのだけど(私の想像)、なかなかうまくいかないのが男女の縁というものです。
 長続きはせずに、二人とも相手のことを慮ってか、おたがいの履歴でもそのことには触れられていないようです。(おたがい著名になる前のことですし。)
 漫画家を廃業した段階で、彼女は自身の立場を「隠居」と言っていましたが、江戸時代の伊能忠敬と同じで、「隠居」してからのほうが輝いていたように思います。
 それにしても早すぎますな、46歳は。


 以上の文は早朝に書いたものです。出勤時間が迫っていたのでささっと書いたんですが、書いてブログにアップしたあとで、荒俣さんとの結婚の事は書かないほうがよかったのかなと少し後悔しました。
 荒俣宏さんは現在すでに新しい家庭を築かれているし、二人が別れて後、二人の結婚に関する記事や談話はいっさい見たことが無く、秘密事項だったのかなと思ったもので。
 しかし読売新聞の杉浦日向子さんの訃報記事には、二人の結婚のことがちゃんと書かれていたので、ホッとしたというのが正直なところです。
 大体この二人の結婚自身、当時(1988年)の「週刊朝日」の編集後記か何かの小さな記事で知って「へえ」と思ったものでした。
 当時杉浦日向子さんは江戸時代を舞台にした漫画をいくつも発表していましたが、まだ30歳前で「若いのに変わった女の子」といった感じでした。
(ここ10年ほどは、少なくとも私は、テレビで和服姿の杉浦日向子さんしか見かけませんでしたが、あの頃は洋服姿の写真もよくあったはずです。)
 荒俣宏さんはちょうど「帝都物語」が映画化された前後の頃で、やっと一般的な知名度が上がってきつつあった時期だったと思う。
 なんでこの二人の結婚の記事が「週刊朝日」の編集後記にかというと、当時「週刊朝日」のカラーグラビアページに「路上観察学会」の創設者の一人、藤森照信さんが「建築探偵」シリーズというのを連載していて、ともに「路上観察学会」に縁のあった荒俣宏さんと杉浦日向子さんの入籍の祝賀会に藤森さんが出席したといった内容の記事が編集後記に載ったわけです。
 藤森さんと荒俣さんはほぼ同年代で、ひょっとしたら、藤森さんが荒俣さんに杉浦さんを紹介したのだったか、その辺の詳しい記事の内容は忘れました。
 とにかく入籍当時から大きく騒がれること無く、知らないうちに別れていたという、ひっそりとした結婚生活でした。


 時代考証の面での彼女の師は稲垣史生さんでした。
 たしか彼女の方から「私を弟子にしてください」と押しかけていったのではなかったかしら。
 その稲垣史生さんが弟子の杉浦日向子さんのことを書いた文を昔読んだことがあります。
 彼女が「日本漫画家協会賞」を貰った時だったか、とにかく少しまとまったお金が入ってきたときがあったんだそうです。まだ二十歳代のことで、世間一般には遊びたい盛りのころなのに、彼女はそのお金をつぎ込んで吉川弘文館から出ている全100巻にもなる「日本随筆大成」を買ったらしい。
 あの辛口の稲垣史生さんが「若いのに見上げた娘だ」と褒めているところを見ると、若いときから「江戸研究」に対して腹の座ったところがあったんでしょう。
 
 

「お宝」雑誌

 「古本屋グラッパ」のウェブサイトを作ってから1年余り、名前だけつけながら1冊も商品をならべなかった棚がありました。
 「雑誌」と名づけた棚です。
 私は、何でも取って置き魔で、何十年前の週刊誌なんかも後生大事においてあるものが相当あるんです。
 例えば「週刊朝日」。二十歳過ぎから20年余り定期購読していて、最近まではそのほとんどを処分せずに持っていました。
 軽く計算すると、1年50冊あまりで、掛ける20で「週刊朝日」だけで約1000冊強。購読のきっかけは私が好きだった二人の作家、松本清張司馬遼太郎がともに連載物を載せていたからですが、松本さんがいつの間にやら「黒」シリーズの連載から退き、司馬さんが急死して「街道をゆく」の連載が終わってしまったので購読も止まってしまいました。
 ただ、この週刊朝日の表紙は当時篠山紀信さんが撮られていて、定期的に「紀信の表紙写真館」と銘打ってシロウトさんを起用した表紙を作っていました。
 後にミノルタカメラのテレビコマーシャルで名を売って女優になった「宮崎美子」さん(今は「淑子」でしたか)や、フジのアナウンサーからフリーになった「小島奈津子」さんはじめ、ずいぶんたくさんの女性がこの「表紙写真館」から巣立っているのです。
 ただの2、30年前の週刊朝日なぞたいした値では売れないだろうけど、こういった、後にタレントになった女性のシロウト時代の写真が表紙になっている週刊誌なら「お宝」として結構いい値で売れるんじゃないか。そんなことを考えてウェブサイトを作る際に設けた棚でした。
 「週刊朝日」だけでなく「平凡パンチ」や「週刊プレイボーイ」なんかの30年近く前のものには、今、穏やかなお母さん役なんか演じている「大女優」さんの、けっこう過激な写真が載ってたりして、そういう雑誌も案外と持ってる。それらを棚にならべて売るつもりだったのですが―


 広さ6畳の書庫にギュウギュウ詰めにされた本のなかからそれらの雑誌を見つけて引っ張り出すことが、1年経った今も出来ていないのです。


 なんとも情けない「トホホ」な話です。
 部屋にコノ字型にめいっぱいの数置いてある本棚に納まりきらない本が、本棚と本棚の間の通路に平積みされ始め、通路の奥から奥から通路をつぶしていって、入り口まで来てしまうともういけません。たとえ探している本のある位置がわかっていても、そう簡単に取り出せません。いわんや本の場所が不明の場合など、どこからどう手をつければいいのかわからない状態です。
 私は凄い汗かきなので、これからの2、3ヶ月はあの書庫には入れない。窓はすべて締め切って本の日焼け防止のために厚手の黒いカーテンをしてある。真夏に書庫に入るだけで体中から汗が吹き出てきます。腕の汗を本のカバーに擦り付けるか、額やあごから滴り落ちる汗のしずくで床の本の表紙を汚すのが確実と言う状態になるのです。まだしばらくは棚にならべる雑誌を探し出すことなど出来そうにありません。
 とうとう「雑誌」の棚を設けた私自身が辛抱しきれなくなって、先日棚の名前を変えました。「徳島の本・四国の本」です。
 とりあえず、ギュウギュウ詰めの6畳の書庫に置いていない本と、他の棚に以前からならべてあった徳島・四国関連の本を移してきてとりつくろいました。


 まあ「雑誌」の棚は、本が出品できるようになればいつでも新しく作ることが出来るので、上記のような雑誌を集められてる方、もしこの文を読まれてましたら、今しばらく待ってくださいね。
 

李舜臣

 久しぶりに―ほんとに久しぶりに、ブログを書いてます。
 なんか2、3ヶ月入院していて退院してきた人間が、体をならすために軽い運動を始めたみたいな感じ。
 ボチボチあわてずにいきます。
 北朝鮮拉致被害者蓮池薫さんが韓国の小説を翻訳して出してます。
 金薫著「孤将」(新潮社)という本です。
 (蓮池さんは朴美景著「走れヒョンジン!」という、映画「マラソン」のベースとなった本もそのあと翻訳しています。本格的に翻訳家になるのかしら。)
 「孤将」は、16世紀終わりに豊臣秀吉が配下の大名たちの軍勢を朝鮮半島に送り込んだ「文禄・慶長の役」(韓国・北朝鮮では「壬辰倭乱」といいます)の際、海上で、押し寄せる日本軍をせき止めた朝鮮の提督「李舜臣」を描いています。
 日本の艦隊は、彼の率いる亀甲船艦隊(といっても日本軍に比べると数の上で圧倒的に不利だったのですが)に翻弄され続け、先に朝鮮半島に上陸していた軍隊への軍勢補給がままなりませんでした。
 その本を読んだわけではありません。新聞雑誌の書評を読んだだけです。いちど本屋で手にとったことがありますが、パッと開いたとき、上陸してきた日本軍に朝鮮の大衆が犯されたり殺されたりする描写が目に飛び込んできて、他のページを繰ることなく棚にもどしてしまいました。
 この本に書かれているような当時の日本軍の残虐行為があったのか、なかったのか。
 かの地の陶工たちを「手土産」代わりに多数日本へ「拉致」して連れ帰るようなことを平気でやっているところから判断すると、日本軍による残虐行為が皆無だったとは到底思えない。しかし私が不勉強で、当時の日本軍の残虐度の「程度」がよくわかりません。
 風聞や、後世に付け加えられた脚色を除いて、当時の日本と朝鮮とで記された信憑性の高い記録が見てみたい。
 それはそれとして、「李舜臣」という人物は、かなり以前から私の大好きな朝鮮人です。
 韓国内各地に、鎧兜に身をかため「日本よ、来るなら来い」と日本の方角を見据える李舜臣銅像がありますが、まさに彼は朝鮮半島の歴史の中でコリアンが胸を張って世界に誇れる「英雄」だろうと思っています。
 海将としての戦闘能力はもちろんですが、「私」よりも「公」を優先させる点、やっつけられた日本人にも好まれる性格です。
 日露戦争時、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃つにあたって、東郷平八郎が海戦の天才・李舜臣を祀った社に必勝の願を掛けたとか、近代日本海軍は李舜臣の海戦での戦術をテキストとして教えていたといったエピソードが残されているようです。
 秀吉の時代には彼にえらいめにあわされた日本ですが、その能力と心根の清さは公正に評価しており、日本国内には李舜臣ファンがそうとう多いようです。

孤将

孤将

乱中日記〈1〉壬辰倭乱の記録 (東洋文庫)

乱中日記〈1〉壬辰倭乱の記録 (東洋文庫)

乱中日記〈2〉壬辰倭乱の記録 (東洋文庫)

乱中日記〈2〉壬辰倭乱の記録 (東洋文庫)

乱中日記〈3〉壬辰倭乱の記録 (東洋文庫 (685))

乱中日記〈3〉壬辰倭乱の記録 (東洋文庫 (685))

走れ、ヒョンジン!

走れ、ヒョンジン!

三田村鳶魚

 このところ、このブログが開店休業のような状態になっていて、読んでくれている方には申し訳なく思ってます。
 今しばらくはこんな状態が続きそうなんですが、きょうは久しぶりに少し時間の余裕が出来たので、なるたけ短めに文を書きます。
 これまで古本屋グラッパが1日で一番古本の冊数を多く発送した記録は37冊です。
 と書くと格好いいのですが、実態は全巻揃えて店に並べてあった中公文庫の「鳶魚江戸文庫」シリーズをひとまとめに買われたお客様がいたというだけで、発送個数はゆうパック1個だけでした。


 中公文庫の「鳶魚江戸文庫」は、当初12冊ものとして刊行が始まり、途中から「好評に付き」12冊追加され、その後再び12冊の追加があって全36冊になり、別巻2冊を加えて38冊のシリーズとなりました。(わが店はすべてバラ売りで並べてあったため、先に1冊だけ買われたお客様がおられて、まとめ買いされた方はその1冊だけが欠けていた事になります。)


 三田村鳶魚翁は、言うまでもなく「江戸学」の大家です。
 江戸ブームが起きてすでに久しいですが、本格的に江戸時代のことを学ぼうと思う人には彼の著作は欠かすことのできないものです。
 でありながら江戸の文化史・風俗史を専攻する先生たちの論文には三田村鳶魚の名はあまり出てこない。
 その最大の理由は、鳶魚翁の著作には書かれている内容の根拠となる出典が明記されていないことが多いからです。
 学問とはそういったもので、「ここに書いたことは一級史料の何々によっています」と明記しておかないと認めてもらえない。
 鳶魚翁自身は「それは何に書いてあったのですか」と聞かれたら、即座に「ああ、それは何々という書物に書いてあるよ」と答えたでしょう。しかし今の人で鳶魚翁ほど博学な人はいないから、鳶魚翁の著作をすべて追跡調査してその出典を調べ上げることのできる人がいないのです。(あるいは空襲で失われた史料も多いかもしれません。)
 もともと鳶魚翁は専門家相手に本を書いたのではなく、一般人向けに本を書いていたので出典が明記されていないのも仕方ないのですが(明記してあるものもあります)、今から思うと実にもったいない。

 
 彼が「孤高の江戸学家」になってしまっている所以です。また、文庫シリーズでは別巻として収められている「大衆文芸評判記」と「時代小説評判記」という小説家の時代考証のミスを批判した書も、あら捜しの好きな読者には好評でしたが、槍玉に挙げられた小説家からは疎まれる原因となりました。


 そんなわけで学術の世界ではこれからも冷遇され続けるでしょうが、せめて江戸時代好きの一般人は彼の著作、あるいは彼が選んだ江戸時代の書物を楽しむようにしようではありませんか。(現代人にはちょっと読みづらいかな?杉浦日向子さんぐらいくだけてないとだめかしら?)

「古本寅の子文庫」さんの紹介

 私的な諸事情から、この日記だけでなく、古本屋グラッパの店のほうに商品を並べる作業も滞っている状態が続いています。
 店に商品を並べる作業は4月3日に行なって以降とうとう一ヶ月お休み状態が続いてしまいました。
 ゴールデンウイークもあまり時間がとれなかったせいで、パソコンに向かっても画面を眺めるだけでタイムアップになってしまい、文章を書いたり商品をアップしたり出来ずに終わっちゃいました。いただいた注文の発送だけは、ちゃんとしなければ私が嘘つきになっちゃいますから、キッチリ行なっていたのですが、そうすると店に並べてある本の数が増えずに減っていくばかりで、「まずいなあ」と思いつつ、最悪の一ヶ月をすごしたという感じです。
 「私的な諸事情」はまだ1、2ヶ月続きそうなので、いつまでも何もせずにはおれず、1日1冊でも2冊でもアップしてゆかねばと思っているきょうこの頃です。
(まあ、ひと月に100冊も200冊も本が売れるほど繁盛してはいないので、1日1、2冊アップすれば店の商品は減らずに済みます。)
  

 今日、店の「古本屋りンク集」に静岡県駿東郡清水町在住でオンライン古本屋を営まれている「古本寅の子文庫」さんを加えさせてもらいました。「電脳書房」さん以来数ヶ月ぶりの追加なので、宣伝も兼ねてこのことを書いておきます。
 このお店の最大の特徴は「岩波写真文庫」と「保育社カラーブックス」です。
 岩波写真文庫を数多く置いてある店はめずらしいと思います。保育社カラーブックスは比較的多くのお店が扱ってはいるけれど、「古本寅の子文庫」さんは1番から番号順に登録していっていてるという凝り様。ただ、1週間ごとに7冊登録していっている最中でまだ130番ぐらい(昭和40年頃発行分)までですが。
 カラーブックスは900番近くまであるはずなので、このペースで登録を進めて完成までまる2年を要する壮大な計画といえます。
 「保育社カラーブックス」の本で探し物のある方、じかにお店に問い合わせされたらいかがでしょう。お店に登録前でも在庫のある本なら売買交渉に応じてもらえるかもしれませんよ。(ただしこの文、「古本寅の子文庫」さんの承諾を得て書いているわけではありません。ダメかもしれないですけど。)
 私個人でいうと、昔、水上勉さんの著作を集めていた時期があります。彼の著作目録のなかに保育社刊の「越前竹人形」(だったと記憶してるのですが、間違っているかもしれません)というのがありました。越前竹人形は水上さんが小説で書いたことで一躍全国に知れ渡った民芸品なので、きっと保育社がカラーブックスに「越前竹人形」を加える際に執筆を水上さんに依頼したのではないかと推理し、古本屋でカラーブックスを見かけるとそれが置かれていないか見ていたのですが、今にいたるもその本に出くわしたことがありません。もともとの推理が間違っていたのかもしれません。水上本の蒐集熱は冷めているので手に入れたいとは思っていないものの、私の推理があっていたのか間違っていたのかだけは、今でも確認してみたい気持ちです。
 リンクを張った際に「古本寅の子文庫」さんには連絡メールを送ってありますが、それに書かなかったことを今思い出しました。
 「古本寅の子文庫」さんのホームページでは「保育社」をつけずに「カラーブックス」とだけ書いてあるのですが、そのせいか検索エンジンで「保育社カラーブックス」を検索しても「古本寅の子文庫」さんの名前がなかなか出てきません。「保育社」を頭につけられたほうが得なように思います。「古本寅の子文庫」さん、この文読んでくれるかな?
 わが店の「古本屋リンク集」では(まだ10店舗も載せていない情況ですが)お店のある場所を必ず書くことにしています。バーチャルではあるけれど、そのお店のサイトを開くとき、お店のある場所にいった気になるのではないかと思ってです。で、「古本寅の子文庫」さんのを書いてて、はたと迷ってしまいました。
 都道府県名の後にどう書こうかと思ってです。郡名と町名だと普通一般的には町名のほうが通りがいいのですが、「古本寅の子文庫」さんの場合駿東郡清水町にあり、これだと(静岡・清水)となる。こう書いたら100人が100人、次郎長で有名な(あるいはちびまるこちゃんで有名な)清水を思い浮かべてしまうでしょう。仕方なく(静岡・駿東)としました。
 そう書いたら、今度は「古本寅の子文庫」さんのある町(沼津に隣接しているのですが)は旧国名で言う「伊豆」なのか「駿河」なのかという些細なことが気にかかってきました。
 私は今までかってに「沼津辺は伊豆の国だろう」と思い込んできたのですが「駿東郡」という名からすると駿河の国なのかと思えてきたのです。日本史の歴史地図を開けば簡単にわかることなんですが、その歴史地図が手元にない。
 我が家の場合、生活空間があまり広くなく、本のほとんどは家から4キロほど離れた倉庫に置いてあるのです。(販売している商品もです。)家には「手紙の書き方」とか「10分で出来る料理レシピ」といった実用本しかなく、調べたいことがあっても揃えてある資料類が近くにないという何とも腹立たしい状況なんです。
 明日も売れた本を取りに倉庫へは行くので、その際に歴史地図を探してみようとは思っているのですが、うまく見つかるかどうか。


 きょうもまた長めの文章になってきたのでこの辺で置きます。

政治的なこと

 今回の中国と韓国の反日デモの件は、日本人として相手に対して腹立たしく思うことが多々あるのですが、考えようによっては、やっと竹島問題、あるいは言論統制反日教育で国民を洗脳してゆく国家政策の恐ろしさを日本人に知らしめたというてんで意味のある出来事だといえるかもしれません。
 国境に関して言うと、日本は島国で、隣の国に領土を取られたという歴史が近代に入るまでほとんど無かったせいか(取ったことはあるくせに)、自分たちの領土をあらゆる手立てで守るということに余りにも無頓着なところがあります。
 ならば国がもっと国民を啓蒙して「いまの日本には隣の国とのあいだでこれこれの解決できていない領土問題があります」ということを国民に知らしむべきなのに、相手国との摩擦を恐れてかほとんどそれをしていません。
 これは難しい問題をはらんでいることは事実です。ヘタに啓蒙活動をすると、国民の中には理性で理解する以前に感情で理解する人たちが案外いて、反ロ、反中、反韓感情を高ぶらせてしまう恐れがある。現に竹島問題に関するいまの韓国民の反応がそうで、韓国政府が「竹島(韓国で言う独島)は古来から韓国の領土」と教え続けているものだから、多くの韓国民が歴史を公正に検証することなしに日本に対して腹立たしく思っています。
 日本国政府は李承晩政権が強引に竹島を占拠したときから一貫して「竹島は日本の領土だから返してほしい。なんならどちらの言い分が正しいか第三者に判断してもらいましょう」と言い続けてはいるのですが、日本国民に状況を説明し続けることを怠ってきました。
 だから「韓国との間にそんな領土問題があることを今まで知りませんでした」という日本人も出てくるのです。
 領土問題というのは一朝一夕に解決できる簡単な問題ではなく、100年後にも解決しているかどうかわからない難しい問題です。大事なのは解決するまで感情に流されること無く根気強く自分たちの主張をし続けることであり、そのためにも国民への啓蒙は欠かせないことだと思います。
 さいわい日本人の多くは「国がそう言うからそうなんだろう」と無批判に国のいうことを受け入れてしまわず、国の言っている内容を自分の頭で咀嚼して自分の考えを持つ能力を持っています。(中には日本国が白といえば黒いものでも白いんだと思っている人もいないではないですが少数です。)扇動することはありません。歴史的事実を包み隠さず国民に知らしめるだけで構いません。あとは国民がどちらの言い分に理があるか判断しますよ。
 韓国の今回の行動には、たいへん失礼な言い方になりますが、大人げないというか子供っぽさを感じてしまいますが、中国の今回の行動には逆に大人としての狡猾さを感じています。
 日本人として忘れてはならないのはいまの中華人民共和国はたとえどんなに経済発展しようとも国民が言いたいことを自由にいえない一党独裁国家だという現実です。
 韓国も中国も、決して誤解から日本を非難しているのではありません。両国共に東アジアで日本が突出した力をもつことを望んではいないのです。だから事あるごとに何かの理由をつけては日本を非難して叩こうとするのです。そうすることがまた国内の不満の矛先の向きを変えるにも最適で、反日はまさに一石二鳥の策なのです。そんな確信的に取られている政策に、慌てふためいて言い訳したりする必要は毛頭なく「あなた方のおっしゃることは他国に対する内政干渉ですよ」とやわらかく諭せばいいことです。日本国政府が第一に気を使わなければならない相手は、隣の国ではなく、日本国民です。
 国家がその行動に対して第一に責任を追わなければならないのは自国民に対してである。そんな近代国家の基本すらわかっていないのなら「国連常任理事国」に立候補する資格などないのではないかと、韓国や中国と違った意味で思ってしまうきょうこの頃です。